はじめに―野球熱溢れる尼崎から羽ばたいた逸材
兵庫県尼崎市。この町は古くから野球文化が根付き、多くのプロ野球選手を輩出してきた。その中でも、異色の経歴を持つ一人の選手がいる。埼玉西武ライオンズの岸潤一郎外野手だ。甲子園を4度経験し「甲子園の申し子」と呼ばれながらも、大学での挫折を経て独立リーグから這い上がり、ついにNPBの舞台へと辿り着いた男の物語を紐解いていく。
尼崎での少年野球時代―背番号22との出会い
岸潤一郎は1996年12月8日、尼崎市に生まれた。野球との本格的な出会いは小学4年生の時。地元の「成徳イーグルス」に入団したことから始まる。その後「金楽寺少年野球クラブ」へ移籍し、捕手を中心に様々なポジションを経験した。この時、初めて背負った背番号が「22」。この数字は、後に岸の野球人生において特別な意味を持つことになる。
小学6年生の時には、早くもその才能が開花する。オリックス・バファローズジュニアに選出されたのだ。尼崎という野球の盛んな土地で育った岸は、地域の少年野球チームで技術を磨き、次第に頭角を現していった。中学時代は「西淀ボーイズ」に所属し、主に投手として活躍。中学3年生では「NOMOジャパン」に選出されるなど、すでにエリート街道を歩んでいた。
明徳義塾という選択―甲子園常連校への進学
中学を卒業した岸が選んだのは、高知県の名門・明徳義塾高校だった。甲子園常連校として知られるこの学校は、厳しい練習と規律で多くのプロ野球選手を輩出している。岸にとって、この選択は自分の才能を最大限に伸ばすための決断だった。地元を離れ、野球に打ち込める環境を求めた結果だったのだろう。
明徳義塾の野球部は、馬淵史郎監督のもと、徹底した分析と戦略で勝利を追求するチームとして知られている。強豪校との対戦では、インコースをしっかりと攻める投球術など、岸はここで多くの技術と精神力を学んだ。地元尼崎から遠く離れた高知の地で、岸は新たな挑戦を始めたのである。
明徳義塾での快進撃―1年生からベンチ入り
明徳義塾に進学した岸は、入学直後から才能を発揮する。なんと1年春からベンチ入りを果たし、1年夏の甲子園では4番ライトとして出場。投手と打者の二刀流として活躍し、チームをベスト4へと導いた。投げてよし、打ってよしのスター選手として、高校野球ファンの注目を集めた。
3年間で春夏合わせて4度の甲子園出場を果たした岸は、まさに「甲子園の申し子」と呼ばれるにふさわしい選手だった。2年夏には森友哉(現オリックス)率いる大阪桐蔭の連覇を阻止し、3年夏には岡本和真(現巨人)擁する智弁学園を破るなど、強豪校を相手に勝利を重ねた。さらに、U-18野球日本代表にも選出され、アジア大会準優勝に貢献。高校通算24本塁打を記録し、その実力は疑いようのないものだった。
興味深いことに、岸は高校時代から子供好きで知られており、甲子園出場選手が提出するアンケートの「将来の夢」欄に「保育士」と記入していたという。野球一筋のイメージとは異なる、岸の優しい一面が垣間見える。
大学時代の挫折―トミージョン手術という試練
輝かしい高校時代を終えた岸だったが、プロ志望届は提出しなかった。本人は「良い意味で何でもできるが、悪い意味では秀でたものがない」と考えていたという。謙虚で冷静な自己分析から、岸は明徳義塾・馬淵監督の母校である拓殖大学への進学を選択。馬淵監督からは「4年後にドラフト1位でプロに行けるような選手になってこい」と激励を受けて送り出された。
しかし、大学での野球生活は順風満帆とはいかなかった。右肘の故障に悩まされた岸は、医師から「靭帯が切れているわけではないから、手術しなくても復帰可能」と告げられたものの、試合に出られない時期を有効活用するため、トミージョン手術を受ける決断をした。
手術は成功したが、リハビリ期間は長く厳しいものだった。先の見えないリハビリ生活の中で、岸の心は徐々に野球から離れていった。結局、野球部を退部し、大学も中退。甲子園で輝いていた選手が突如として野球界から姿を消したことから「消えた天才」としてテレビ番組で特集されたこともある。岸自身は後に「消えたんだから、天才じゃないんですよ」と笑いながら語っているが、この時期は本人にとって最も辛い時期だったに違いない。
野球との再会―母の言葉が運命を変えた
大学を辞めた岸は、二度と選手として野球をやらないと決めていた。しかし、2017年、人生の転機が訪れる。四国アイランドリーグplusの徳島インディゴソックスの球団社長から、両親を通じて入団の誘いを受けたのだ。最初は断るつもりだった岸だが、母親からかけられた言葉が彼の心を動かした。
「プロになれるかなれないかは別として、もう一度野球している姿を見たい」
この言葉に背中を押された岸は、2017年11月10日、四国ILのトライアウトに参加。見事特別合格を果たした。そして11月12日に行われた徳島のドラフト会議で4位指名を受け、再び野球の道へと戻ってきたのである。選んだ背番号は「22」。少年野球時代に初めて背負った、あの思い出の番号だった。「初心に帰る」という意味を込めての選択だった。
四国IL徳島時代―ゼロからの再出発
2018年、徳島インディゴソックスでの岸の野球人生が始まった。当初は投手登録だったが、トミージョン手術の影響を考慮して登板機会はなく、後に外野手登録へと変更された。投手としてではなく、野手として再スタートを切ることになったのだ。
岸にとって、この環境は新鮮だった。「正直、こっちが本来の僕なので。ピッチャーをちゃんとやったのって、高校の3年間だけですから」と後に語っているように、小中学時代は野手として活躍していた岸にとって、野手回帰は自然な流れだったのかもしれない。
徳島での1年目、岸は64試合に出場し、打率.275ながら38盗塁を記録。持ち前の俊足を活かし、最多盗塁のタイトルを獲得した。さらに外野手部門のベストナインにも輝き、独立リーグでの確かな実力を証明した。
2019年には遊撃手として全試合に出場。出場69試合で打率.265、3本塁打、25打点、35盗塁の成績を残し、チームの年間総合優勝に貢献した。この年の活躍が、NPBスカウトの目に留まることになる。
徳島での生活は決して楽ではなかった。四国内の移動は遠く、試合後に帰宅すると深夜1時や2時になることもしばしば。風呂と洗濯を済ませると朝3時で、睡眠時間もままならない過酷なスケジュールだった。しかし、岸は「めっちゃいい環境やと思いますよ、僕は好きです」と語っていた。試合数が多く、レベルの高い選手たちが指導してくれる環境を、岸は前向きに受け止めていたのだ。
プロ入団の瞬間―西武からの8位指名
2019年10月17日、NPBドラフト会議が開催された。徳島からは3人の選手が指名を受けることになるが、岸はその中の一人だった。埼玉西武ライオンズから8位指名。ドラフト最後の74番目という、まさにギリギリでの指名だった。
岸は「最後の最後でほっとした」とコメント。甲子園で輝いていた高校時代から、大学での挫折、独立リーグでの再起、そしてプロ入り。長く険しい道のりだったが、ついに夢の舞台へと辿り着いたのである。契約金1000万円、年俸500万円(推定)で仮契約を結び、背番号68を背負うことになった。
岸と同時に、徳島のチームメイトである上間永遠が西武から7位指名、平間隼人が読売ジャイアンツから育成1位指名を受けた。3人揃っての指名に、徳島球団のウェブサイトはアクセスが殺到してサーバーがダウンしたという。それだけ注目度の高いドラフトだったのだ。
プロでの挑戦―初安打は初ホームラン
2020年、西武でプロ1年目を迎えた岸は、2軍で経験を積んだ。そして2021年、ついに初の開幕一軍入りを果たす。しかし最初は9打数無安打と結果が出ず、4月17日に登録を抹消された。
その後、チームの故障者続出や新型コロナウイルス感染による選手の欠場により、5月28日に特例措置で再び一軍へ昇格。6月1日の対巨人戦で、岸の野球人生に記念すべき瞬間が訪れる。プロ初安打が、なんと初本塁打だったのだ。左中間越えの一発で、記念すべき初ヒットを飾った。
その後も6月は好調を維持し、初の猛打賞や先頭打者本塁打を放つなど、持ち前の積極性で結果を残した。この年は100試合に出場し、課題を残しながらも一軍定着へ向けて大きな一歩を踏み出した。
現在、そして未来へ
西武入団後も、岸は背番号22への憧れを語り続けている。「22番を目指してやりたいです」。少年野球で初めて着けたあの番号が、今も岸の原点なのだ。
遠回りをしてプロ入りした岸だが、本人は「苦労人って言われているのは知っていますけど、そんなに特に自分では苦労したとは思っていません」と語る。「高校のまま順調に行っていても、今のように野球ができているかはわからない」とも。挫折を経験したからこそ、野球の楽しさや、プレーできることの喜びを深く理解できているのだろう。
尼崎で野球を始め、明徳義塾で甲子園を沸かせ、大学で挫折し、独立リーグで再起し、そしてプロの舞台へ。岸潤一郎の野球人生は、まさに波瀾万丈だ。しかし、その一つ一つの経験が、今の彼を形作っている。母親の「もう一度野球している姿を見たい」という言葉から始まった第二の野球人生。岸は今日も、背番号68を背負いながら、あの22番を目指して戦い続けている。
尼崎が生んだ「甲子園の申し子」は、決して諦めなかった。挫折を乗り越え、再び夢を掴んだその姿は、多くの人々に勇気と希望を与えている。これからも岸潤一郎の挑戦は続く。






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