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矢野燿大の野球人生 | バスケ部から阪神タイガースの正捕手へ【トレード秘話と引退後の活動】

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野球
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中学時代は野球部なし――バスケと野球の二刀流生活

大阪府大阪市平野区出身の矢野燿大(やの・あきひろ)。小学2年生から地元の少年野球チームで軟式野球を始め、当初は遊撃手として活躍していたが、チームの捕手が故障したことをきっかけに捕手へとコンバート。

この偶然の配置転換が、後のプロ野球人生を決定づけることになる。

しかし、進学した大阪市立瓜破中学校には当時野球部が存在しなかった。野球への情熱を失わなかった矢野は、平日はバスケットボール部に所属しながら、実家では毎日欠かさずバットの素振りを続けた。そして週末になると、軟式野球チーム「瓜破エンゼルス」でプレーを続けるという、まさに野球とバスケットボールの二刀流生活を送っていた。

この環境は一見ハンディキャップのように思えるが、矢野にとっては野球への渇望を強める期間となった。バスケットボールで培った運動能力と、週末だけの野球で磨いた技術。限られた時間だからこそ、一球一球への集中力が高まっていったのだろう。

桜宮高校、東北福祉大学で才能開花

中学卒業後、矢野は大阪府立桜宮高等学校に進学。ここで本格的に野球に打ち込める環境を得た矢野は、持ち前の強肩と打撃力を発揮し始める。

高校卒業後は東北福祉大学へ進学。大学時代には日米大学野球にも2度出場するなど、その実力は着実に評価を高めていった。東北福祉大学は数多くのプロ野球選手を輩出する名門であり、矢野もまた強豪校での競争の中で技術を磨き上げた。

大学時代の矢野は「強肩強打で内野もこなす万能選手」と評され、捕手としてだけでなく、野手としての能力も高く評価されていた。この多様性が、後のプロ生活での適応力につながっていく。

運命のドラフト――巨人と中日の抽選

1990年のドラフト会議。矢野は読売ジャイアンツ(巨人)と中日ドラゴンズから2位指名を受けた。指名が重複したため抽選となり、結果は中日が交渉権を獲得。

実は矢野自身、当時は「巨人が当たりクジを引くことを願っていた」という。理由は明確だった。中日には2歳年上の中村武志という若き正捕手が全盛期を迎えており、出場機会が限られると予想したからだ。実際、巨人は抽選に敗れた後、社会人捕手の吉原孝介を2位指名している。

こうして矢野の中日時代が始まるが、予想通り中村の壁は高かった。

中日時代の苦悩――深夜の公園で素振りを続けた日々

中日入団後、矢野は控え捕手としてベンチに座る日々が続いた。出場機会のないまま試合が終わる日も多く、「また正捕手との差が広がってしまった」とマイナス思考に陥ると、帰宅後に真夜中の公園へ走り、一人でバットを振り続けた。

当時の中日監督・星野仙一からは打撃力を評価されていたが、正捕手の中村武志は星野自らが鍛え上げた強肩の捕手で、1991年に20本塁打、1993年には18本塁打を記録するなど攻守ともに充実していた。矢野にとって、この存在は「大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」のである。

転機は入団4年目のシーズン後に訪れた。東北福祉大から共に中日入りした同級生の吉田太投手が戦力外通告を受け、ひっそりと退団したのだ。この出来事が矢野に危機感を与えた。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」――そう心に誓った矢野は、正捕手・中村のリードを徹底的に研究し、自ら率先して練習に励むようになった。

1996年には打撃力を買われて外野手としても起用されるようになり、56試合の出場ながら打率.346、7本塁打、19打点をマーク。8月11日には野口茂樹とのバッテリーでノーヒットノーランも達成した。しかし外野でプレーするうちに、矢野は捕手への思いをより強めていった。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加していないような気持ちになった」という。

1997年には自己最多の83試合に出場。プロ7年目にして第二捕手としての地位を確立し、ようやく正捕手・中村の背中を捉えかけていた――そのタイミングで、運命の電話が鳴る。

衝撃のトレード――阪神への移籍と星野監督への複雑な思い

1997年10月13日午後10時30分、自宅マンションの電話が鳴った。球団から告げられたのは「トレードが決まったから」という一言。想定外の阪神行きに、愛知県出身の妻は号泣したという。

中日からは矢野と大豊泰昭、阪神からは関川浩一と久慈照嘉という2対2の大型トレードだった。阪神は当初、正捕手の中村武志を欲しがったが、中日が希望した桧山進次郎は出せず、大学時代から矢野の能力を高く評価していた阪神が、ターゲットを矢野に切り替えたのだ。

トレードを告げられた夜、矢野は悔しさから一睡もできなかった。しかし徐々に、「星野監督と中日を絶対に見返す」という気持ちが湧き上がってくる。当時中日の監督だった星野からは、トレードの際に何も言葉を掛けてもらえず、矢野は「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と心に誓った。

ところが皮肉なことに、2002年、野村克也監督の後任として阪神の監督に就任したのは、他ならぬ星野仙一その人だった。当初、矢野は「また星野監督に捨てられてしまう」と危機感を抱いたが、星野は気まずい素振りを見せずによく話しかけてきてくれたため、次第に「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」と気持ちが変わっていった。

実際、星野は矢野が阪神移籍直後に正捕手で起用されていないことに「阪神はなぜ矢野を使わないんだ。こっちはできあがった捕手を手放すのは痛かったのに」と怒りを露にしていたという。トレードを決断した星野自身が、矢野の実力を誰よりも理解していたのだ。

阪神タイガースでの輝き――28年ぶりの優勝を支えた正捕手

1998年、阪神移籍初年度。吉田義男監督からリード面を高く評価された矢野は、正捕手として一軍公式戦110試合に出場した。5月26日の対中日戦では川尻哲郎投手とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成。奇しくも、中日時代に最初のノーヒットノーランを達成させた野口茂樹が、この試合で中日の先発投手として登板していた。

さらに7月7日の対横浜戦では、大魔神・佐々木主浩(大学の1年先輩)からサヨナラ安打を放ち、佐々木の連続試合セーブ記録を22試合で止め、この年唯一の黒星を付けた。

1999年には、野村克也監督の下でプロ入り9年目にして初めて規定打席に到達し、打率.304を記録。阪神の捕手で打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴以来20年ぶりの快挙だった。

2003年、矢野はチーム28年ぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献。守備だけでなく、キャリアハイとなる打率.328を記録し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得した。2005年にも2年ぶり9度目のリーグ優勝を経験し、ベストナイン、ゴールデングラブ賞に加えて日本シリーズ敢闘賞も獲得。矢野は阪神の扇の要として、黄金時代を支え続けた。

矢野は20年の現役生活のうち阪神で過ごしたのが13年。移籍後の稼働年数の方が長く、トレードでの移籍先で一軍の監督まで務めることになった稀な例となった。

2008年には北京五輪日本代表に選出され、オールスターゲームにも7回出場。通算サヨナラ安打は10本で、これは阪神タイガース球団記録である。

引退、そして第二の野球人生へ

2010年、メジャー帰りの城島健司が入団したことで出場機会が減少。右肘の状態も悪化し、6月に二軍落ち。復活の目処が立たず、矢野は20年間にわたる現役生活に別れを告げた。

9月25日の二軍での引退試合(対中日戦)では、下柳剛とのバッテリーで9回表に登板し1イニングを無失点に抑えた。試合後の引退セレモニーでは阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされ、「中日での7年間がなければ僕はない。野球人生を幸せに送れた」と感謝の言葉を述べた。

解説者、そして指導者として――阪神への恩返し

引退後の2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家に就任。2011年1月からは朝日放送テレビ・朝日放送ラジオとサンテレビの野球解説者としても活動を開始した。

2016年、矢野は阪神タイガース一軍作戦兼バッテリーコーチに就任し、現場へ復帰。2018年には二軍監督としてチームを日本一に導き、その手腕が高く評価された。

2019年から2022年まで一軍監督を務め、4年連続Aクラス入りという球団記録を達成。優勝こそ逃したものの、「理想と夢を語る」という信念を持ち続けチームを牽引した。監督退任後、チームは矢野が育てた若手選手たちを中心に2023年に38年ぶりの日本一を達成。矢野の残した遺産は確実に実を結んだ。

社会貢献活動――野球界への恩返し

2023年からは再び解説者・評論家として活動しながら、子どもたちを笑顔にする共育(教育)事業「オレたちの野球プロジェクト」をスタート。2010年からは筋ジストロフィー患者への電動車椅子の支援を継続するなど、社会貢献活動にも精力的に取り組んでいる。

また、アスリートの社会貢献支援をする団体「NPO法人THANKYOU FUND」を設立し、代表理事として活動。野球を通じて得た経験と影響力を、次世代へと還元し続けている。

逆境を力に変えた不屈の捕手

中学時代は野球部がなく、バスケットボール部に所属しながら週末だけ野球を続けた少年。ドラフトでは希望しない球団に入団し、控え捕手として深夜の公園で素振りを続けた若手時代。トレードで突然の移籍を告げられ、一睡もできなかった夜――。

矢野燿大の野球人生は、決して順風満帆ではなかった。しかし、どんな逆境も「見返してやる」というバネに変え、一つひとつの壁を乗り越えていった。その不屈の精神が、30代中盤で迎えた最盛期を支え、リーグを代表する捕手へと成長させた。

「中日での7年間がなければ僕はない」「幸せな野球人生を送れた」――引退セレモニーでの言葉は、すべての経験に感謝する矢野の人間性を物語っている。

現在も野球界への恩返しを続ける矢野燿大。その姿は、困難な状況でもがいている多くの人々に、希望と勇気を与え続けている。

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