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島田紳助が漫才を辞めた理由|ダウンタウンが突きつけた「時代の終わり」

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しゃべりの天才が認めた「絶対的な敗北」

1985年5月、漫才ブームを牽引し、絶頂期にあった「紳助・竜介」が突如解散を発表した。記者会見で島田紳助は、解散理由として当時まだ無名だった「ダウンタウン」の名前を挙げ、「俺らの時代は終わった」と語った。この言葉の裏には、天才と呼ばれた男が認めざるを得なかった、真実が隠されていた。

運命の出会い:うめだ花月の舞台袖で

1985年5月、うめだ花月上席の舞台袖でダウンタウンの漫才を目にしたことが、紳助にコンビ解散を決意させた。その時の衝撃を紳助は後にこう語っている。

「サブロー・シローとダウンタウンの漫才を見てたときに、『アカン』と。明らかに負けてる。これは、やったらいかんと。醜態をさらすだけやと」

紳助が見たものは、新しいスタイルの漫才ではなかった。それは漫才そのものの「進化」だった。スピードとパワーで観客を圧倒する紳助・竜介のスタイルに対し、ダウンタウンはゆったりとしたテンポで、シュールで独創的な世界観を展開していた。

早すぎる引退宣言:5年目の涙

実は紳助は、コンビ結成5年目でフジテレビの『THE MANZAI』に出演した時、すでに「終わった」と感じていた。観客はウケている。拍手も起きている。しかし、紳助の心の中では何かが壊れていた。

その時のことを紳助は「涙がボロボロ流れた」と告白している。漫才師として、自分たちの限界を誰よりも早く悟っていた。そこから解散までの3年間を「惰性やった」と振り返る。しかし、頭で分かっていても、実際に解散に踏み切るには「きっかけ」が必要だった。そのきっかけこそが、ダウンタウンとの遭遇だった。

NSCでの衝撃:「このテンポはどうするんや」

紳助はNSC(吉本総合芸能学院)でダウンタウンの漫才を見た時の衝撃を「忘れられない」と語っている。当時の漫才ブームは早いテンポが主流。その常識の中で、ダウンタウンは異質だった。

紳助は松本人志に尋ねた。「このテンポはどうするんや」

松本の答えは明快だった。「いや、俺らはこのテンポ変えるつもりはありません。このままでいきます」

この一言が、紳助の心に深く刻まれた。若い彼らは、流行に迎合しない。自分たちのスタイルを貫く。その姿勢と才能に、紳助は後に「ダウンタウンの漫才の方向性が正しかったことに衝撃を受けた」という。

記者会見での告白:「ダウンタウンには勝てない」

1985年5月20日、解散会見で紳助は「阪神・巨人やサブロー・シロー、ダウンタウンには勝てない」と明言した。まだほとんど無名だったダウンタウンの名前を、解散理由として公に語ったのだ。

この発言は当時の芸能界に大きな波紋を呼んだ。人気絶頂のコンビが、まだブレイクしていない若手を理由に解散するなど、前代未聞だったからだ。

紳助が見抜いた「ワインの時代」

紳助は1985年のラジオ番組で、ダウンタウンについてこう語っている。

「ダウンタウンなんかおるやん。あいつら、おもろいねん。めちゃめちゃおもろいねんけどね、今はやらへんのよ。お酒でいうたらね、みんなが焼酎、『焼酎の時代や』いうてんのに、一生懸命おいしいワイン作ってんのと一緒でね。確かにうまいんよ、そのワインは」

この時点で紳助は、ダウンタウンの面白さを認めながらも、まだ時代が追いついていないと分析していた。しかし、本能的に理解していたはずだ。「ワインの時代」は必ず来る。そして、その時自分たちの「焼酎」は古臭く見えるだろうと。

松本人志の自信:「僕らの漫才はもうほとんど完璧です」

紳助のダウンタウン評に対し、松本人志はラジオでこう応えた。

「僕らの中でもう漫才は答え出てますから。もうおもろいんや。もう、まぁほっとっても、まぁまぁ絶対負けへんわという。もう、僕らの漫才はもうほとんど完璧です」

この若さゆえの自信に満ちた発言こそが、紳助の危機感を的中させた。実際、ダウンタウンはその後お笑い界の頂点に立ち、30年以上第一線で活躍し続けることになる。

決断には常に「人」がいる

決断には常に人物の影響があり、紳助の解散という決断に影響を与えたのはダウンタウンだった。自分で「終わった」と思っていても、実際に行動に移すには、背中を押す存在が必要だった。

紳助にとって、ダウンタウンの存在は「引導」だった。醜態をさらす前に、勝負の世界から降りる。それが、プライドの高い紳助が選んだ道だった。

司会者としての成功

漫才を辞めた紳助は、その後司会者、プロデューサーとして大成功を収める。『行列のできる法律相談所』『ヘキサゴンII』など数多くの人気番組を持ち、2011年の引退まで第一線で活躍し続けた。

一方のダウンタウンは、1987年の『4時ですよーだ』で大ブレイク。1989年に『ガキの使い』、1991年に『ごっつええ感じ』、1993年に『ダウンタウンDX』と次々とレギュラー番組を持ち、お笑い界のトップに君臨した。

天才が認めた天才:お笑いの系譜

紳助がダウンタウンに感じた「負け」は、技術の優劣ではなかった。それは「時代の変化」を本能的に察知したことによる敗北宣言だった。

スピードとパワーの漫才から、間とセンスの漫才へ。大衆性から独創性へ。紳助は、自分たちが築き上げた漫才スタイルが、新しい波に飲み込まれることを誰よりも早く理解した。

そして、敗北を認めることができる勇気こそが、真の天才の証だったのかもしれない。紳助がダウンタウンに感じた衝撃は、後輩芸人たちに道を譲る形で、お笑い界の新しい歴史を作る礎となった。

引導を渡されたのではなく、自ら降りた

「ダウンタウンが紳助に引導を渡した」という表現は、正確ではないかもしれない。むしろ、紳助は自ら時代の変化を敏感に察知し、潔く身を引いた。ダウンタウンは、その決断の「理由」を紳助に与えたに過ぎない。

しゃべりの天才と呼ばれた島田紳助。その彼が唯一「勝てない」と認めた相手こそ、ダウンタウンだった。この一つの決断が、日本のお笑い史において重要な転換点となり、新しい時代の幕開けを告げたのである。

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