映画館が日常だった少年時代
東京都港区に生まれた斎藤工は、映像の世界と切っても切れない関係にあった。父親が東北新社で映画制作に携わっていたため、幼い頃から映画館に通うのが日常だった。特に10歳前後で観たビートたけし監督作品『その男、凶暴につき』は人生の転機となった。「コドモには、見せるな。」というキャッチコピーの映画を父親に見せられ、そこで映像の世界に衝撃を受けた。
父親が働く撮影現場を訪れることも多く、カメラの向こうで働く人々の姿を見ながら「エンドロールに自分の名前を載せたい」という明確な夢が芽生えた。ウルトラマンのフィギュアを手に物語を想像していた少年は、やがて自分が物語を作る側に回ることを決意する。
15歳からの挑戦、モデル活動の始まり
中学時代はサッカーに没頭していた斎藤だが、15歳になると自ら芸能事務所を探し始めた。映画業界で働くという夢を実現するため、まずは俳優としての経験を積むことを選んだ。モデル事務所「インディゴ」に所属し、184センチの恵まれた体格を活かして『MEN’S NON-NO』などの雑誌モデルとして活動を開始した。
しかし、現実は想像以上に厳しかった。オーディションに行けば同じようなタイプの人が山ほどいて、自分より優れた人材が次々と現れた。「自分である必然性がない」という現実を突きつけられ、意気消沈する日々が続いた。
転機となった香港での経験
状況が変わったのは、日本と香港のモデル事務所が連携したことがきっかけだった。香港で活動する機会を得た斎藤は、そこで写真家でもある映画監督の目に留まる。そのフォトセッションがきっかけで日本でのイベントに招待され、そこで出会ったのが映画『時の香り〜リメンバー・ミー〜』のプロデューサーだった。
2001年、20歳で同作の主演に抜擢され、俳優としてデビューを果たす。しかし、デビュー作で主演を務めたからといって、その後順風満帆だったわけではない。
10年以上続いた下積み時代の実情
2004年に映画『海猿』のオーディションに合格した時は、これで状況が変わると期待した。だが仕事が舞い込んでくることはなく、そこから約10年間という長い不遇の時代が始まった。デビューから毎年のように雑誌で「来年ブレイクする俳優」として取り上げられながら、実際にはブレイクできない状況が続いた。
生活のため、斎藤は20代半ばまでアルバイトを続けた。メインの仕事は新聞配達で、朝刊を配る日々だった。ハロー!プロジェクトのコンサートでは警備員のリーダーも務めた。184センチという身長を活かし、ステージ最前列でロープを張る役割を任されたという。引越しのバイトもしながら、俳優としての仕事を待ち続けた。
「同じ地区を担当していた配達員は年齢も境遇も様々だった」と斎藤は振り返る。長年その仕事をしている先輩から「あの家は犬がいるから気をつけて」といった実践的なアドバイスを受けながら、働くことの意味を学んだ。「アルバイトだろうが社員だろうが、仕事を続けることでそれが職業になる」という気づきが、挫けそうになる心を支えた。
「自分にはニーズがない」という焦燥感
オーディションを受けるたび、自分が求める役柄と自分が持っている要素が乖離していることを痛感した。湿度のある映画の世界に憧れていたのに、そういった話のオファーはまず来なかった。仕事がないので何でもオーディションを受けたが、結果は同じだった。
「同世代がどんどん花開いていくなかで、僕にはニーズがないという焦りがずっとあった」と斎藤は語る。人から必要とされないことは、存在がないことと同じだと感じた。やればやるほど自分がハマらない。合わないのか、才能がないのか。家賃も払えない時期があり、将来への不安と闘いながらの日々だった。
多方面への挑戦と転換期
俳優として行き詰まりを感じた斎藤は、活動の幅を広げていった。映画監督、写真家、執筆活動など多方面に挑戦したが、どれも芳しい結果には繋がらなかった。それでも諦めずに続けた理由は、映画業界で働くという根本的な夢があったからだ。
2011年『最上の命医』、2013年『ミス・パイロット』など、脇役として着実に経験を積み重ねていった。そして2014年、33歳の時に出演したドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』が大ヒットを記録。上戸彩との共演で見せた色気ある演技が評判となり、ついに大きなブレイクを果たした。
同作では24歳の役を演じ、「抱かれたい俳優第1位」にも選ばれた。デビューから13年の歳月を経て、ようやく斎藤工という俳優が世間に認知された瞬間だった。
下積み時代が教えてくれたこと
長い下積み時代を経験したからこそ、斎藤は「働くとは続けることだ」という哲学を持つようになった。新聞配達のアルバイトで出会った人々から学んだ姿勢は、その後の俳優人生に大きく影響している。
「自信があったわけでも、可能性を感じていたわけでもない」と自ら語るように、確証のない道を歩き続けるのは容易ではなかった。しかし、映画のエンドロールに名前を載せたいという少年時代からの夢が、彼を支え続けた。
現在の活躍と新たな挑戦
ブレイク後の斎藤は、俳優として多数のドラマや映画に出演するだけでなく、映画監督としても活動を本格化させた。2012年にショートムービー『サクライロ』で監督デビューを果たし、2014年『半分ノ世界』、2017年『blank13』では第20回上海国際映画祭でアジア新人賞部門最優秀監督賞を受賞した。
また、映画館のない地域の子供たちに映画を観せるプロジェクトを国内外で開催するなど、映像文化の普及にも尽力している。YouTuberとしても活動し、映画評論家として自身の映画愛を発信し続けている。
父親が働く現場で見た映像制作の世界。エンドロールに名前を載せたいと願った少年は、今やそのエンドロールを自分で作る側にまで到達した。10年以上という長い下積み時代は、決して無駄ではなかった。むしろその経験こそが、斎藤工という俳優・クリエイターの土台となっている。
「マイノリティの感覚を持てているか」を大切にし、世の中と気が合わないことを心地よく感じるという独特の価値観。それは、誰からも必要とされないと感じた下積み時代があったからこそ生まれた視点なのかもしれない。


コメント