はじめに
日本プロ野球界から米メジャーリーグへと羽ばたき、現在もサンディエゴ・パドレスで活躍するダルビッシュ有投手。彼の原点となった高校時代は、宮城県の東北高校で過ごされました。
中学3年生の時点で既に50校以上もの高校からスカウトを受けていた超有望株が、なぜ地元大阪を離れて東北高校を選んだのか。そして、名門PL学園を選ばなかった理由とは。本記事では、ダルビッシュ投手の高校進学をめぐる知られざるエピソードに迫ります。
50校以上からのスカウト、そこから絞り込んだ5校
ダルビッシュ有は中学時代、全羽曳野ボーイズでエースとして活躍し、全国大会ベスト8、世界大会3位という輝かしい成績を収めました。3年夏の時点で既に球速は144キロに達しており、190センチを超える長身から繰り出されるピッチングは、中学生とは思えないレベルでした。
こうした実績から、高校進学にあたっては全国から50校を超える高校野球の強豪校がスカウトに訪れました。当時から「松坂大輔以来の怪物」と称され、高校野球界で最も注目される逸材だったのです。
ダルビッシュ本人は進路選択において、明確な2つの条件を設定していました。それは「寮生活で親元から離れられること」と「上下関係が比較的緩いこと」でした。この条件をもとに、最終的に以下の5校に候補を絞り込みました。
- 上宮太子高校(大阪府)
- 広陵高校(広島県)
- 東海大学菅生高校(西東京)
- 前橋育英高校(群馬県)
- 東北高校(宮城県)
東北高校を選んだ決め手とは
数ある強豪校の中から、ダルビッシュが最終的に東北高校を選んだ理由は、主に3つあったと言われています。
1. 若生正廣監督の人柄と指導方針
東北高校の監督だった若生正廣氏の人柄が、ダルビッシュの心を強く惹きつけました。若生監督は後に仙台弁で「有がウチに来るとは全く思ってもいなかった。なんでだべなあ〜って今でも不思議なんだっちゃ」と語っています。
他校が熱心にアピールする中、東北高校の見学では若生監督とダルビッシュが少し話をした程度だったといいます。しかし、その飾らない姿勢がかえってダルビッシュの心に響いたのかもしれません。
若生監督の指導方針は、選手の自主性を重んじるものでした。高校入学後、ダルビッシュに対して「何々をやれ」と指示することはほとんどなく、本人のしたいようにさせていました。成長痛を抱えていたダルビッシュの体調を理解し、自分でトレーニングメニューを考えることを許容する放任主義的なアプローチは、ダルビッシュの才能を最大限に引き出すことになります。
ダルビッシュ自身、若生監督の訃報に接した際には「今(自分が)あるのも(若生監督が)自由にやらせてくれたから」とツイートし、深い感謝の念を表しています。
2. 高井雄平の存在
東北高校には、ダルビッシュが目標としていた選手がいました。それが2年先輩で、後に東京ヤクルトスワローズに入団した高井雄平でした。
憧れの先輩と同じ環境で野球ができることは、ダルビッシュにとって大きな魅力でした。実際、入学後は高井先輩の存在がチームの雰囲気作りにも貢献していたようです。
3. チームの雰囲気と上下関係
ダルビッシュが重視していた「上下関係が比較的緩いこと」という条件に、東北高校は適していました。もちろん礼儀や規律はありましたが、選手の個性を尊重し、過度に厳しい上下関係で縛られることがない環境だったのです。
しかし、それでも当初は3年生の一部から「なんであいつだけ?」という不満の声が出たこともあったといいます。当時の主将は、そうした不満を持つ部員の部屋を訪れて話を聞き、ダルビッシュとチームを融合させる役割を買って出ました。生意気に見えても野球への純度が高く、憎めない性格だったダルビッシュを、チームメイトは次第に受け入れていきました。
なぜPL学園を選ばなかったのか
ダルビッシュの出身地である大阪には、当時高校野球界の名門中の名門であるPL学園がありました。清原和博、桑田真澄のKKコンビをはじめ、多くのプロ野球選手を輩出してきた伝統校です。
しかし、ダルビッシュが実際にPL学園からスカウトを受けたという明確な記録は見つかりませんでした。これには、いくつかの要因が考えられます。
PL学園の完全外部スカウト制度
PL学園野球部は、少数精鋭の完全外部スカウト制を採用していました。中学時代にリトルシニアやボーイズリーグで優秀な成績を収め、スカウトマンに勧誘された者だけが入部を許される仕組みでした。
タイミングの問題
ダルビッシュが高校進学を決める2001年から2002年にかけて、PL学園は暴力事件などの不祥事が相次いでいた時期でした。2001年7月には暴力事件が発覚し、夏の大阪大会出場を辞退。2002年には研志寮(野球部専用寮)が廃止され、外部スカウト制度も同時期に廃止されるなど、大きな転換期を迎えていました。
この混乱期において、PL学園がダルビッシュのスカウト活動を積極的に行っていなかった可能性があります。また、仮にスカウトの声がかかっていたとしても、ダルビッシュが求めていた「上下関係が比較的緩いこと」という条件とは、当時のPL学園の体質は相容れなかったと考えられます。
PL学園は伝統的に厳しい上下関係があり、付き人制度など独特の文化が存在していました。自由を重んじるダルビッシュの性格とは、必ずしもマッチしなかったのかもしれません。
東北高校での3年間
東北高校に入学したダルビッシュは、2年生の春から4大会連続で甲子園に出場。2年夏には決勝まで進出し準優勝、3年春の選抜では初戦の熊本工業戦でノーヒットノーランを達成するなど、輝かしい実績を残しました。
ただし、高校時代は成長痛に悩まされ続けました。自分の判断で投球を控えたり、納得がいかないときは走らないなど、従来の高校野球の常識からは外れた行動も見られました。しかし、若生監督はそうしたダルビッシュのスタイルを尊重し、結果的にその自主性が彼の成長につながりました。
高校2年の冬には、明治神宮大会で済美高校にコールド負けを喫したことをきっかけに、トレーニングに目覚めます。帰省せずに同級生の坂本健太の実家に泊まり込んで、早朝ランニングやウエイトトレーニングに励みました。このオフシーズンの努力が、その後の飛躍の基盤となりました。
その後のキャリアと東北高校の意義
2004年のドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズが単独で1位指名。契約金1億円、年俸1500万円、出来高5000万円という高卒新人として史上3人目の最高条件で入団しました。
プロ入り後は日本ハムでエースとして活躍し、2012年にメジャーリーグ移籍。現在もMLBで第一線で活躍を続けています。2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、チーム最年長として若手を支える精神的支柱となり、日本の優勝に大きく貢献しました。
ダルビッシュが東北高校で学んだ「自分で考え、自主的に行動する」という姿勢は、その後のキャリアにおいても一貫しています。独自のトレーニング方法や調整法を編み出し、常に進化を続ける姿勢は、若生監督から与えられた自由な環境で培われたものと言えるでしょう。
まとめ
ダルビッシュ有が東北高校を選んだ理由は、若生監督の人柄と指導方針、憧れの高井雄平先輩の存在、そして比較的緩やかな上下関係というチームの雰囲気でした。地元大阪の名門PL学園ではなく、遠く離れた宮城の高校を選んだのは、自分の個性や考え方を尊重してくれる環境を求めたからです。
この選択は、ダルビッシュにとって最良の決断でした。自由な環境の中で才能を開花させ、世界トップクラスの投手へと成長した彼の姿は、高校選びにおいて「名門」や「伝統」だけでなく、自分に合った環境を選ぶことの重要性を示しています。
ダルビッシュの高校選択のエピソードは、これから進路を決める若い選手たちにとって、大きな示唆を与えるものではないでしょうか。





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