日本サッカーを変えた「カリオカ」
ラモス瑠偉といえば、日本サッカー界において伝説的存在として知られる元日本代表選手です。ブラジル・リオデジャネイロ出身の彼が、なぜ地球の裏側にある日本に渡り、日本人となったのか。その背景には、単純な成功物語では語りきれない、人間臭いドラマが隠されています。
ブラジルから日本へ:月給18万円に賭けた若き日の決断
来日のきっかけは「お金」だった
1977年1月、読売クラブで活躍していたジョージ与那城が新戦力をスカウトするためブラジルに帰国し、ラモスの兄と旧知の仲だったことから、弟のフイ(ラモス)が候補に挙がりました。当時のラモスは20歳。月収5~6千円程度の生活をしており、月給18万円、2年契約という条件は魅力的でした。
自著『ラモスの黙示録』によれば、来日当初は日本人になるとは全く考えておらず、来日した正直な理由はお金のためだったと語っています。親孝行をするため、実家の家計を助けるため。若きラモスの決断は、極めて現実的なものでした。
「ブラジルに帰りたい」と泣いた日々
しかし、日本での生活は想像以上に厳しいものでした。来日直後は「ブラジルに帰りたい」と母親に手紙を2回ほど書いており、よみうりランドから家まで泣きながら帰る日々が1カ月ほど続いたといいます。
日本のサッカーレベルにも衝撃を受けました。当時のラモスは日本サッカーに対し「ブラジルの草サッカーよりひどい。ただ蹴って走るだけで、中盤がない」という印象を持っていました。サッカー大国ブラジルで育った若者にとって、日本のサッカー環境は物足りなさを感じさせるものだったのです。
ディスコの美女が運命を変えた
そんなホームシックに陥っていたラモスを救ったのは、意外にも東京の夜の街でした。フジタに在籍していた同郷の先輩にディスコやカフェバーへ連れられると、たちまち大喜びして連日のように赤坂、六本木へ繰り出すようになりました。
そして赤坂のディスコで出会った美女たちとの交流が、ラモスの心を日本に留めたといいます。もしあのとき日本の夜の魅力に触れていなければ、ラモスは早々にブラジルへ帰国していたかもしれません。
日本での覚醒:トラブルメーカーからスターへ
1年間の出場停止処分という試練
1978年1月14日の日産自動車戦で、相手選手が痛がる演技をしてラモスが退場になった後、その選手が笑っているのを見て激高し、グラウンドで追いかけ回したことで、異例の1年間の出場停止処分を受けました。若さゆえ、言葉の壁ゆえのトラブルでした。
しかし、この試練がラモスを大きく成長させることになります。1年間の出場停止が解けた復帰直後から、2試合連続ハットトリックを含む14得点7アシストを記録し、得点王・アシスト王の二冠を獲得しました。この偉業は日本サッカーリーグ史上、釜本邦茂以外は達成していません。
運命の女性との出会い
サッカー好きの男友達の仲介で当時美大生だった清水初音がラモスと対面し、一目惚れしました。1984年に結婚した初音さんは一人娘であり、この結婚がラモスの人生を大きく変える鍵となります。
日本帰化への道:葛藤と決断
当初は拒否していた帰化
読売クラブのコーチから帰化を勧められた際、自身の人生がクラブ事情(外国人枠)と天秤にかけられているように感じて初めはムッとしたといいます。ラモスの夢はあくまでブラジルに帰ってプロサッカー選手として活躍することでした。
実際、1980年代後半にはブラジル1部の名門サンパウロFCから獲得オファーが届いていました。当時のサンパウロには多くのブラジル代表選手が在籍しており、ブラジルではメジャーになれなかったラモスにとって千載一遇のチャンスでした。
妻への愛が決断を促した
しかし、ラモスは名門クラブからのオファーを断ります。一人娘で家族思いだった妻をブラジルに連れていくことができず、「自分の夢はたくさんあってもいいですが、妻は一人だけだ」と考えたからです。
監督のジノ・サニから「読売クラブのために帰化しなさい」と勧められ、ラモスが帰化すれば読売クラブは新たに外国籍選手を獲得できることから、お世話になったクラブへの恩返しとして決意しました。母から人に恩返しすることを教えられていたことも、この決断を後押ししました。
1989年11月、ラモスは日本国籍を取得し「ラモス瑠偉」となりました。「瑠偉」という名前は初音夫人の考案によるものです。帰化までの1年間、マスコミからの激しいバッシングもあったといいますが、ラモスは信念を貫きました。
ブラジル代表になれる実力はあったのか
日本で開花した才能
ラモスがブラジル代表になれるレベルの選手だったかという問いに対しては、慎重な検討が必要です。ブラジルでプレーしていた若い頃のラモスは、メジャーなクラブで活躍することはできませんでした。
しかし、日本で驚異的な成長を遂げます。JSL(日本サッカーリーグ)では5度の優勝に貢献し、得点王2回、アシスト王3回を獲得しました。
1985年のキリンカップでは、サントスFC、ウルグアイ代表、マレーシア代表を招いた大会で読売クラブが参加し、ラモス個人もそのテクニックの高さを十分に証明しました。
名門サンパウロが注目した実力
1980年代後半、ブラジルの名門サンパウロFCが「日本で覚醒した異色の選手」として注目し、獲得を検討していました。ただし、主力扱いではなかったことから、ブラジル代表レベルに到達していたとは言い難いかもしれません。
結論として、ラモスは日本という環境で才能を最大限に発揮した選手であり、ブラジルにいたままでは同じレベルには到達しなかった可能性が高いでしょう。日本サッカー界にとって、ラモスを受け入れたことは大きな幸運だったといえます。
日本代表としての活躍:33歳からの挑戦
1989年に日本国籍を取得した後、1990年には33歳で日本代表に初選出されました。帰化選手として、ラモスは日本サッカー界に革命をもたらします。
1991年にはキリンカップ優勝、1992年にはハンス・オフト監督の下でダイナスティカップとアジアカップで初優勝に貢献しました。司令塔として、技術面だけでなく精神的支柱としてチームを牽引しました。
「ドーハの悲劇」と日の丸への愛
1993年10月28日、カタール・ドーハで行われたワールドカップアジア地区最終予選の対イラク戦で、ロスタイムに同点ゴールを許し「ドーハの悲劇」となりました。この試合後、ラモスは天を仰ぎ「カミサマ…」とつぶやいたといいます。
ラモスは日本代表のユニフォームに日の丸がなかったことに異議を唱え、「俺たちはカラスのために戦っているわけじゃない」と発言し、1992年から代表ユニフォームにはどこかに必ず日の丸が入るようになりました。ブラジル出身ながら、誰よりも日本を愛した男でした。
日本サッカー界への恩返し
ラモス瑠偉の物語は、外国人選手の成功話ではありません。お金のために来日した若者が、愛する女性と出会い、第二の祖国を見つけ、その国のために戦うことを選んだ、人間ドラマそのものです。
現役キャリアを終える時「最初はお金のために日本に来たけど、日本人になって日本サッカーに恩返しがしたかった」と振り返っています。
ラモス瑠偉がいなければ、日本サッカーの発展は遅れていたかもしれません。彼の情熱、技術、そして日本への愛情は、今も多くのサッカーファンの心に刻まれています。ブラジルの血と日本の心を持つ「カリオカ」は、真に日本サッカー界の宝といえるでしょう。




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