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小橋賢児 逆境を乗り越えたクリエイターの軌跡 ――貧困、挫折、鬱病から起業へ

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戦時中の家で育った幼少期

東京都大田区で生まれた小橋賢児の家は、戦時中から残る古い住宅だった。畳も床もところどころ抜けており、ゴキブリもネズミも出る環境で、決して裕福とは言えない暮らしだった。

共働きの両親は常に家を空けていた。学校から帰ると置き手紙があり、兄と二人で食事をする毎日。連絡手段もない時代、孤独な時間が多かった幼少期だが、この環境が小橋の創造性を育むことになる。常に親がいない状況で、自分で考えて行動し、創意工夫をして遊ぶクセがついたという。

8歳で芸能界デビューし、本人は観覧希望の申込だと思っていた『パオパオチャンネル』のオーディションに偶然合格。子役としてのキャリアがスタートした。

人気俳優の裏にあった葛藤

『スワロウテイル』『人間・失格』『ちゅらさん』など数々のヒット作に出演し、10代から20代前半にかけて人気俳優として活躍した小橋。中学3年生から365日休みなく働き続け、ヒット作に次々出演していた。

しかし、華やかな表舞台の裏で、彼は深い違和感を抱えていた。元々音楽やファッションが好きでクラブに通っていたが、人気が出ると事務所から「イメージが悪くなる」と止められた。『役者だからこうしなきゃいけない』『これは言っちゃいけない』と、自分の心を無視して生きることが辛くなっていった。

周囲から称賛される一方で、自分が何をしているのか分からなくなっていく。「このまま今のポジションにしがみついていたら、お金や地位は得られるだろうけど、本当の自分じゃないまま生きていくのかと思うと怖くなった」と振り返る。

26歳でネパールへの一人旅を決行。そこで出会った青年の「いまを生きるために働く姿」と、キャリアに悩む自分との差に愕然とした。そして27歳、2007年に俳優業からの休業を宣言する。

どん底の日々と鬱との闘い

渡米して貯金を切り崩し、時には先輩にお金を借りながら、小橋はアメリカや南米、アジアを旅した。英語でケンカができるようになること、アメリカを横断すること――この2つを目標に、冬のボストンで語学留学をスタートさせた。

しかし帰国後、現実は厳しかった。28、29歳で貯金が底をついたという。「何かチャレンジしようと気持ちだけは先行しているが、芸能界の方が長かった分、足元を見られてなかなか仕事にならない」状況に直面する。

実家に戻り、鬱の状態に陥った。肝機能障害が判明し、ほぼ寝たきりの生活を送った。嫌なことが続き、肝臓も壊して倒れて1ヶ月くらい動けなくなり、全てを失ったような感覚になった。このままでは病気を言い訳にして何もできずに終わってしまう――30歳を目前に、小橋は人生最大の危機を迎えていた。

30歳の誕生日が転機に

どん底から這い上がるきっかけは意外な形で訪れた。現状を打破するため、30歳の誕生日を自らプロデュースしたのだ。

友達を呼んでパーティーを開催し、一つ一つの出会いを大切にする。そうやって知り合った人の仕事を手伝ううちに、それが徐々に大きくなっていった。旅先で撮影した映像を編集し、友人にプレゼントすると好評で、やがてファッションブランドのPVを撮る機会も得た。

アメリカ横断の最後に訪れたマイアミで出会った『ULTRA MUSIC FESTIVAL』。この世界最大級のダンスミュージックフェスが、彼の人生を決定的に変えることになる。

圧倒的な非日常体験に感動した小橋は、日本の若者たちの反応を思い出した。YouTubeで「ULTRA」を見て「すごい」と言いながらも、「でもどうせこんなの日本なんかでできるわけない」とコメントする若者たち。この「どうせ」という言葉を聞いたとき、これが日本の今だと感じた。

「ULTRA JAPAN」で日本を変える

「どうせ無理」なことを起こせたとしたら、それを目の当たりにした人は未来を、日本を、自分の人生を変えられるんだと実感できるのではないか。この思いから、日本での「ULTRA」開催を決意する。

2014年、avexと共に『ULTRA JAPAN』のクリエイティブディレクターとして、東京のお台場で世界最大級のダンスミュージックフェスを実現させた。単なる音楽イベントではない。人を非日常的な世界に呼び込むことで、その人の内側にある”want to”の灯火を光らせるきっかけを作りたかったのだ。

イベントは大成功を収め、多くの人の人生を変えるきっかけとなった。「これまで海外に興味がなかったが、『ULTRA JAPAN』がきっかけで海外に行くようになった」という声が数多く寄せられた。

新たなステージへ

『ULTRA JAPAN』の成功後、小橋はさらに活動の幅を広げていく。未来型花火エンターテインメント『STAR ISLAND』の総合プロデューサーを務め、シンガポールのカウントダウンイベントとして採用されるまでに成長させた。

2021年には東京パラリンピック閉会式で総合演出を担当。そして現在、2025年大阪・関西万博の催事企画プロデューサーとして、再び日本に新しい「気づきの場」を作ろうとしている。

The Human Miracle株式会社の代表取締役として、イベントプロデュースだけでなく、都市開発や地方再生にも携わる小橋。ファッションデザイナーの荻原桃子と結婚し、一児の父でもある。

逆境が教えてくれたもの

戦時中の家で育ち、人気俳優として成功しながらも鬱病に苦しみ、貯金が底をつくどん底を経験した小橋賢児。しかし、その全ての経験が今の彼を作っている。

幼少期の創意工夫する力、俳優時代の違和感、鬱病との闘い、そして這い上がる過程で得た気づき――これら全てが、人々に「気づきの場」を提供するクリエイターとしての原動力となった。

「どうせ無理」を「できる」に変える。小橋賢児の挑戦は、多くの人に希望を与え続けている。貧しい環境から始まり、絶頂と挫折を経験し、鬱病を乗り越えて起業家として成功した彼の人生は、逆境こそが最大の成長の機会であることを証明している。

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