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城島茂 逆境から這い上がったTOKIOリーダー| 幼少期の貧困・不登校からジャニーズ入所まで

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TOKIOのリーダーとして長年活躍してきた城島茂。農業タレントとしても親しまれ、明るく誠実な人柄で多くの人々から愛されています。しかし、その笑顔の裏には、誰もが想像できないほど壮絶な幼少期がありました。本記事では、城島茂の母子家庭での貧困生活、不登校の日々、そしてジャニーズ入所から下積み時代までのエピソードを詳しくご紹介します。

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1. 転々とした幼少期と母子家庭での極貧生活

父親の逮捕と両親の離婚

城島茂は千葉県市原市で生まれた一人っ子です。その後、京都、神奈川、鹿児島、大阪、奈良と全国を転々とする生活を送りました。

小学3年生のとき、父親が詐欺で逮捕され3度服役したことをきっかけに両親が離婚しました。父親は暴力団幹部と共謀した手形詐欺事件で約8,500万円を騙し取ったとして逮捕され、刑務所に服役。この事件は当時、新聞でも大きく報じられました。

食べるものにも困る日々

離婚後、母親と城島の生活は困窮し、極貧生活だったと言われています。母親は19歳で城島を出産した九州出身の女性で、どんな逆境でも笑顔を絶やさない強い人でした。しかし、母子2人での生活は想像を絶する厳しいものでした。

報道によれば、食べるものがなく、ときには野菊をおひたしにして食べたこともあったほどの貧困状態。父親の逮捕という事実から逃れるように、夜逃げ同然の転居を繰り返す日々を過ごしていました。

2. 中学まで続いた不登校の日々

孤独との戦い

城島は中学校まで不登校を繰り返す生活を送っていたのです。転校を繰り返したため友達ができず、父親の逮捕という家庭の事情もあって、学校でいじめにも遭いました。

中学時代は奈良県大和郡山市の郡山中学校に通っていましたが、引きこもりがちな生活に。バドミントン部やアニメ同好会に所属していたものの、周囲との関係を築くことが難しかったのです。

閉ざされた心を開いたもの

そんな絶望的な状況の中、城島の人生を変える出来事が起こります。中学3年の時、テレビで少年隊が「仮面舞踏会」を歌っているのを見て「今の生活を脱したい。芸能界に入れば変わることが出来る」という這い上がりたい思いから芸能界入りを決意しました。

テレビの中で輝く少年隊の姿は、暗闇の中にいた城島にとって一筋の光でした。「こんな世界があるんだ」と衝撃を受け、この苦しい生活から抜け出すために芸能界を目指すことを決意したのです。

3. ジャニーズ入所 – 奇跡の合格

母親に内緒で送った履歴書

当初、城島は高校に進学するつもりはありませんでした。しかし、中学の担任教師の説得もあり、奈良県立奈良商業高等学校に進学します。

高校1年の時、城島は母親に内証でジャニーズへ履歴書を送りました。生活を変えたい、母親を楽にしてあげたいという強い思いからの行動でした。

ジャニー喜多川社長との運命的な出会い

履歴書を送った後、驚くべきことが起こります。ある日かかってきた電話に「ジャニー喜多川です」と告げられ、城島は「え?誰ですか?」と返答したのです。ジャニーズ事務所の社長すら知らなかった城島の天然な反応に、ジャニー氏は逆に興味を持ったと言われています。

ジャニー氏から「ジャニー喜多川が社長だから、ジャニーズ事務所っていうんだよ!」と説明を受け、その後、大阪市内のホテルで食事をしながら面談を行いました。

城島の人柄を気に入ったジャニー氏はその場で合格を言い渡し、オーディションなしで入所が決まったという異例のパターンでした。1986年7月7日、奈良県立奈良商業高等学校在学中にジャニーズ事務所に入所しました。当時16歳でした。

4. ジャニーズJr.時代 – 平家派での下積み

光GENJIのバックダンサー「平家派」

入所後、城島は平家派に所属し、光GENJI、男闘呼組、SMAP等とドラマ、バラエティ番組などで数多くの行動を共にすることになります。

平家派は1988年9月、光GENJIのヒット曲『剣の舞』のバックダンサーグループとして結成されました。光GENJIの「源氏」に対抗する意味で「平家」という名前がつけられたグループでした。

城島の他に、後にTOKIOとなる国分太一、山口達也、そしてV6となる坂本昌行、長野博、井ノ原快彦らも所属していました。総勢30名以上が在籍したとされる大所帯のグループでしたが、雑誌やテレビに登場する固定メンバーは8名程度でした。

苦い経験 – 手旗信号で終わった平家派

平家派は光GENJIのバックダンサーとして活躍していましたが、後に城島が語ったエピソードによれば、『剣の舞』では剣を持ったバックダンサーを務めたものの、次の『地球をさがして』では手旗信号を持たされたといいます。

「剣から手旗になって、サヨナラした」と城島は振り返っています。光GENJIの活動内容の変化に伴い、1990年頃、平家派はいつの間にか自然消滅してしまうという憂き目に遭いました。

SMAPとの関係

当時、平家派とSMAPはほぼ同時期にジャニーズJr.のグループとして活動していました。1989年当時はSMAPも1つのジュニアのグループでしかなく、平家派、SMAP派とファンも分かれていたそうです。

1989年には両グループとも『アイドル共和国』(テレビ朝日系)というバラエティ番組に出演していました。その後SMAPが光GENJIの弟分としてデビューを果たす一方、平家派はデビューすることなく消滅という対照的な結果となりました。

5. TOKIO結成へ – 「城島茂バンド」の誕生

山口達也との出会いがターニングポイント

平家派時代、城島の運命を変える出会いがありました。山口達也との出会いは光GENJIのクリスマスコンサートのリハーサルで、ジャニー社長から「この子ベース出来るよ」と城島に紹介されたことがきっかけでした。

1989年、『アイドル共和国』内で、平家派の山口達也らと共に「城島茂バンド(通称:ジョーバンド)」を結成。これがTOKIOの前身となるバンドでした。後に「TOKIO BAND」と改名し、バンド形態のアイドルグループへと進化していきます。

TOKIOの完成まで

1990年、国分太一、松岡昌宏と共にTOKIOを結成しリーダーに就任しました。その後小島啓が加入し、1994年に小島に代わり長瀬智也が加入したことで、現在のTOKIOが完成します。

入所から約8年の下積みを経て、1994年9月21日、『LOVE YOU ONLY』でついにCDデビューを果たしました。当時24歳。極貧生活と不登校の日々から、ついに国民的アイドルグループのリーダーとなったのです。

6. 下積み時代のエピソード

中居正広との深い絆

下積み時代、城島は合宿所で多くのジャニーズJr.と寝食を共にしていました。合宿時代には、仕事から帰ってきた中居正広に「そこにインスタントラーメンあるで。今日の俺の分やけど…中居食べや!」と自分が食べるラーメンを食べさせてあげたというエピソードが残っています。

自分自身が貧しい生活を経験していたからこそ、仲間を思いやる心が育まれたのでしょう。城島と中居は今でも年に数回は飲みに行く仲だそうです。

メンバーの世話を焼くリーダーシップ

TOKIO結成当時はマネージャーがいなかったため、事務所との連絡係を城島が担当していました。黒い靴が必要という連絡が来れば、みんなの足のサイズを聞いて買いに行ったり、衣装の手配をしたり。若くしてリーダーとしての役割を果たしていたのです。

長瀬智也との年齢差エピソード

まだTOKIO結成前、ジャニーズJr.同士で生放送の待ち合わせをしていたときのこと。「長瀬くんという子が来ていない」と報告を受けた城島が長瀬の家に電話すると、母親に「寝てます」と言われてしまったそうです。当時、城島は19歳、長瀬はわずか12歳でした。この年齢差が、のちのTOKIOの兄弟のような関係性を象徴しています。

逆境を力に変えた男

城島茂の幼少期は、父親の逮捕と服役、母子家庭での極貧生活、不登校という三重苦とも言える状況でした。しかし、その絶望的な環境が、彼を芸能界へと突き動かす原動力となりました。

「今の生活を脱したい」という強い思いから始まったジャニーズへの挑戦。オーディションなしという異例の合格、光GENJIのバックダンサーとしての平家派時代、そして8年もの下積みを経てのTOKIOデビュー。

現在の城島茂の温厚で思いやりのある人柄は、この壮絶な過去があったからこそ形成されたものでしょう。どん底を経験した人間だけが持つ優しさと強さが、TOKIOのリーダーとしての城島茂を支えてきたのです。

逆境は人を潰すこともあれば、強くすることもある。城島茂の人生は、どんな困難な状況からでも這い上がることができるということを教えてくれます。

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