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金本知憲が浪人した理由とは?東北福祉大学進学までの知られざる苦難の道のり

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「鉄人」誕生前の挫折

通算2539安打、476本塁打。連続試合フルイニング出場1492試合の世界記録を持つ「鉄人」金本知憲。阪神タイガース、広島東洋カープで活躍し、野球殿堂入りを果たした彼の輝かしいキャリアの裏には、高校卒業後の苦難の浪人時代があったことをご存知でしょうか。

実は金本選手、野球名門・広陵高校を卒業後、大学進学に失敗し1年間の浪人生活を送っています。

なぜ一流選手への道を歩むことになる彼が、このような遠回りをすることになったのか。その真実に迫ります。

高校時代:決して輝かしくはなかった実績

甲子園出場なし、本塁打は通算20本

金本知憲は1987年に広陵高校を卒業しましたが、実は高校時代、プロから注目される有名選手ではありませんでした。

高校時代の主な実績:

  • 2年生からレギュラー入り
  • ポジション:左翼手
  • 高校通算本塁打数:20本
  • 甲子園出場:なし

1985年には広島大会決勝まで進出したものの、広島工業に敗退。翌年も広島大会で敗れ、憧れの甲子園の土を踏むことはできませんでした。当時の広陵高校は低迷期で、金本自身も後に振り返り「高校時代、全然うまい選手じゃなかった」と語っています。

プロ入り後に476本塁打を記録する選手の高校時代が、わずか20本塁打。この数字からも、当時の彼がいかに「原石」の状態だったかが分かります。

浪人を余儀なくされた衝撃的な理由

監督からの二度にわたる虚偽情報

金本選手が浪人することになった経緯は、単なる実力不足ではありませんでした。そこには、信じがたい出来事がありました。

一度目の誤情報:法政大学セレクション

金本は当初、法政大学野球部のセレクションを受ける準備を進めていました。しかし、当時の広陵高校の監督から「セレクションは12月」と告げられたため、その日程を信じて準備をしていました。

ところが実際には、セレクションは8月に実施されていたのです。この誤った情報により、金本は法政大学のセレクション受験の機会を完全に失いました。

二度目の裏切り:中央大学への推薦

1年間の浪人生活を送った後、金本は中央大学野球部のセレクションを目指します。中央大学の監督からは「浪人生は推薦がないと難しい」と告げられていました。

しかし、広陵高校の監督は金本に対し「推薦は大丈夫」と断言。金本はその言葉を信じて中央大学を目指しましたが、結局推薦は得られず、再び進学の道が閉ざされました。

金本は後にこの経験について、「監督に二度も騙されて目の前が真っ暗になった」と著書で告白しています。進路指導における重大な過失、あるいは意図的な妨害によって、一人の若者の将来が大きく変わりかけた瞬間でした。

ヤクルト入団テストも不合格

さらに追い打ちをかけるように、浪人中にヤクルトスワローズの入団テストを受験しましたが、これも不合格。当時の金本の実力が、まだプロレベルには達していなかったことが分かります。

この時期、金本は自分の野球人生が終わるかもしれないという絶望感を味わったといいます。

東北福祉大学への進学:転機となった決断

なぜ東北福祉大学だったのか

二度の裏切りとプロテスト不合格を経験した金本が最終的に進学したのが、宮城県仙台市の東北福祉大学でした。

東北福祉大学といえば、佐々木主浩、矢野輝弘、浜名千広など、数多くのプロ野球選手を輩出してきた野球の強豪校。金本はここで、後にプロで活躍する仲間たちと切磋琢磨することになります。

大学時代のエピソード:厳しい上下関係

東北福祉大学野球部でも、金本の道のりは平坦ではありませんでした。チームメイトだった松本俊彦氏(愛称:ニカウ)との有名なエピソードが残されています。

身長168cmの先輩である松本氏が、190cm近い金本を厳しく指導(時には体罰も)したという逸話は、後年バラエティ番組で語られ話題となりました。この厳しい環境が、後の「鉄人」としての精神力を鍛えたとも言えるでしょう。

大学時代の金本は佐々木主浩らとよく一緒に食事や飲みに行く仲だったといい、生涯の友人関係を築いていきます。

浪人経験がもたらしたもの:遅咲きの大器

23歳でのプロ入り、27歳で初の規定打席到達

浪人と4年間の大学生活を経て、金本が広島東洋カープに入団したのは1991年、23歳の時でした。ドラフト4位、全体46番目という決して高くない評価。

入団当初の評価は厳しいものでした。当時の監督・山本浩二は「打撃ダメ、守備ダメ、足はそこそこ、ハートは強い」と評していたほど。細身の体で、プロの壁にぶつかり続けました。

レギュラーに定着したのは入団5年目の1995年。規定打席に初めて到達したのは、なんと27歳になるシーズンでした。

努力による肉体改造と精神力

しかし、金本はそこから驚異的な進化を遂げます。徹底した筋力トレーニングによって体を作り変え、パワーヒッターへと変貌。非力だった打撃は、最終的に476本塁打を記録するまでになりました。

浪人時代と大学時代の苦難が、金本の「あきらめない心」を作り上げたのです。

金本知憲の主な記録:

  • 通算2539安打(NPB歴代7位、大卒選手トップ)
  • 通算476本塁打
  • 1492連続試合フルイニング出場(世界記録)
  • 1002打席連続無併殺打(日本記録)
  • 44歳まで現役を継続

27歳での本格的ブレイクという遅咲きながら、44歳まで現役を続け、最後のシーズンも126試合に出場。まさに「遅咲きの大輪」として、プロ野球史に名を刻みました。

なぜ浪人したプロ野球選手は少ないのか

プロ野球界において、大学進学のために浪人した選手は極めて珍しい存在です。金本以外では、早稲田大学に二浪して入学した小宮山悟、大阪体育大学の上原浩治などがいる程度。

多くの野球エリートは、高校から推薦で大学に進学するか、直接プロ入りします。1年のブランクは選手生命において大きなハンディキャップとなるため、通常は避けられる道です。

金本のケースは、不本意な形での浪人でしたが、結果的にこの経験が彼の精神力を鍛え、後の大成につながりました。挫折を乗り越えた経験こそが、連続試合出場記録という「鉄人」の称号にふさわしい実績を生んだのかもしれません。

現在の金本知憲:後進への指導と解説者として

2012年に現役を引退した金本は、2016年から2018年まで古巣・阪神タイガースの監督を務めました。2018年に野球殿堂入りを果たし、現在は野球解説者・評論家として活躍しています。

読売テレビ、MBS、ABCテレビなどで解説を担当し、自身の経験を基にした深い洞察で人気を博しています。苦労を重ねて大成した経験を持つ金本だからこそ、若手選手の成長過程を温かく、そして的確に見守ることができるのでしょう。

挫折こそが「鉄人」を作った

金本知憲の浪人時代は、決して輝かしいものではありませんでした。監督の虚偽情報によって二度も進学の機会を失い、プロテストにも不合格。絶望の淵に立たされた1年間でした。

しかし、その経験が金本の精神力を鍛え、「心が折れても、あきらめるな」という人生哲学を形成しました。東北福祉大学で過ごした4年間、そして遅咲きのプロ入り。全てが無駄ではなく、世界記録保持者となる「鉄人」を作り上げる過程だったのです。

高校時代は有名選手ではなく、浪人を経験し、プロ入り後も長く二軍生活を送った金本知憲。彼のストーリーは、才能だけでは成し遂げられない「努力の勝利」の物語として、今なお多くの人々に勇気を与え続けています。

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