はじめに – KKコンビの影に隠れた巨人
1983年、清原和博と桑田真澄の「KKコンビ」が甲子園を席巻した年。その輝かしい栄光の影には、もう一人の天才投手がいた。
身長192センチ、桑田よりも期待され、PL学園のエースとして君臨していた田口権一。なぜ彼は歴史から「消えた」のか。その真実に迫る。
PL学園入学 – 期待の大型右腕として
兵庫県の尼崎ボーイズ出身の田口権一は、桑田真澄、清原和博と同じ1983年春にPL学園へ入学した。当時の身長は192センチ。高校生離れした恵まれた体格は、プロのスカウトも注目するほどだった。
入学時の1年生は全部で27名。清原や桑田と共に、有望な選手たちが全国から集まっていた。しかし、その中でも田口の存在は際立っていた。なぜなら、入学当初、桑田はまだ投手として頭角を現していなかったからだ。
桑田との明暗 – 「PLを辞めたい」と愚痴をこぼした天才
入学当初の桑田は身長172センチで、登板しても痛打を浴びてばかり。外野手転向を言い渡され、球拾いをする毎日だった。一方、田口権一はすでにPL学園のエースとしてマウンドに立っていた。
その差は歴然としていた。桑田は母親に「PLを辞めたい」と愚痴をこぼすほど追い詰められていたという。
しかし、転機が訪れる。清水一夫臨時投手コーチが桑田の才能を見出し、マンツーマン指導を開始。するとその才能が一気に開花した。大阪府大会でのメンバー入りを果たすと、清水コーチの直談判により桑田が先発投手に抜擢される。
この試合で清原が公式戦初本塁打を放ち、桑田は相手打線を散発2安打に抑えて完封。結果で上級生を黙らせたこの一戦から、伝説のKKコンビが誕生した。
消えた理由 – 天才がベンチを外れた日
桑田の急成長により、田口権一の出番は次第に減少していった。1年生の夏、1年生でベンチ入りしたのは桑田と清原の2人だけだった。田口はベンチメンバーから外れることとなった。
しかし、ここで物語は終わらない。2年生の春のセンバツ準決勝、都城高校との対戦で田口権一は再び先発マウンドに立ったのだ。
幻の田口対決 – 192センチvs185センチ
1984年春のセンバツ準決勝。PL学園は都城高校と対戦した。都城には身長185センチの大型左腕・田口竜二投手がいた。
都城の田口が肩を痛めていたという情報がPL学園側にも伝わっていた。それもあって、PL学園はエースの桑田を温存し、同じ2年生右腕の田口権一を先発させた。
結果として、田口対田口という因縁の対決が実現。都城の田口が身長185センチなら、PL学園の田口は身長192センチ。体格だけなら、二人ともプロ顔負けだった。
PL学園は先発・田口権一が1回1/3を無得点に抑え、2回途中から2番手へ。試合は延長11回、PL学園がサヨナラ勝ちした。田口権一にとって、これが甲子園での最後の登板となった。
その後の人生 – Honda野球部での挑戦
高校卒業後、田口権一はプロ野球の道を選ばず、本田技研(Honda)の社会人野球に進んだ。プロからのスカウトまでは至らなかったが、社会人野球の世界で野球を続けることを選んだのだ。
現在も本田技研の会社で働いているとされる。輝かしい甲子園のスターから、社会人として堅実な人生を歩む道を選んだ田口。それは「消えた」のではなく、別の形で人生を「完成させた」と言えるのかもしれない。
「消えた天才」として再び脚光を浴びる
2018年10月から2019年8月まで、TBSで放送された『消えた天才』という番組で、田口権一のエピソードが取り上げられた。桑田真澄が認めた「天才T」として、その存在が広く知られることとなった。
番組では、172センチの桑田と192センチの田口との明暗、清水コーチによる桑田の才能発掘、そしてKKコンビ誕生の瞬間が詳しく紹介された。
まとめ – 天才の定義とは
田口権一の人生は、「天才」という言葉の多面性を私たちに問いかける。確かに彼は甲子園のスターにはなれなかった。プロ野球選手にもなれなかった。
しかし、192センチという恵まれた体格で、一時期はPL学園のエースとして期待を一身に背負い、桑田真澄をベンチで見守る立場だった。
そして何より、彼がいたからこそ、桑田真澄という伝説の投手が誕生したのだ。「消えた天才」ではなく、「時代を作った天才」と呼ぶべきかもしれない。
スポーツの世界は残酷だ。ほんの少しのタイミング、コーチとの出会い、怪我の有無で、人生は大きく変わる。しかし、田口権一はその後も野球を愛し続け、社会人として誠実に生きた。それもまた、一つの「勝利」なのではないだろうか。


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