プロレス界の巨人は元巨人軍の投手だった
日本プロレス界を代表する伝説のレスラーのジャイアント馬場。209センチの長身から繰り出される16文キックで知られる彼が、実は読売巨人軍の投手だったことをご存じでしょうか。本名・馬場正平として野球選手のキャリアをスタートさせた彼が、なぜプロレスラーへと転向したのか。その背景には、運命的な怪我と、それでもスポーツを続けたいという熱い想いがありました。
191センチの超高校級投手として巨人入り
馬場は新潟県三条市出身で、1955年に三条実業高校を2年で中退し、16歳という若さで巨人に入団しました。当時の身長は既に191センチ。高校時代には1試合で18三振を奪うなど圧倒的な実力を誇るエースで、4番打者も兼ねていた超高校級の選手でした。
入団時の計測では身長191センチ、体重98.4キロで、ロシア出身のビクトル・スタルヒンと並んでプロ野球最長身という記録を持っていました。巨人軍は将来の大器として大きな期待を寄せ、背番号59を与えました。
巨人での成績と二軍での活躍
1軍登板は1957年の3試合のみで、通算成績は0勝1敗、防御率1.29という記録が残っています。一軍では思うような成績を残せませんでしたが、二軍では着実に実力を発揮していました。
当時、馬場の女房役だった捕手の加藤克巳氏によると、馬場の最大の武器は「重いボール」でした。巨大な掌にすっぽりとボールが収まり、捕手のミットにズシンと響く剛速球を投げ込んでいたといいます。しかし、その巨体ゆえのコントロールの難しさもあり、一軍定着には至りませんでした。
運命を変えた大洋への移籍と悲劇の怪我
巨人での5シーズンを終えた馬場に、転機が訪れます。1960年1月、巨人から大洋ホエールズに移籍した谷口五郎コーチの誘いで、大洋の明石キャンプにテスト生として参加し、採用内定を受けました。川崎市への転居準備を進めるなど、新天地での再出発に意欲を燃やしていました。
ところが、運命の歯車が狂います。宿舎の風呂場で転倒し、身体ごとガラス戸に突っ込んで左肘に17針を縫う重傷を負いました。この怪我により、左手の第三指と第四指の関節が一時期伸展できない状態となり、投手として致命的な障害を抱えることになったのです。
馬場自身も後に自著で語っています。「あの事故がなかったら、セ・リーグを制覇し日本一となった大洋ホエールズの一員として働いていた」と。わずか22歳での野球人生の終わりでした。
スポーツを続けたい──プロレスへの道
野球選手としての道を断たれた馬場でしたが、スポーツへの情熱は消えませんでした。怪我の治療の目処がついた後も、自宅アパート近くの不二拳闘ジムでボクシングのトレーニングを続けていました。「スポーツをしたい」という純粋な想いが、彼を突き動かしていたのです。
そんな馬場に新たな道を示したのが、プロレスの父・力道山でした。1960年3月、巨人時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねますが、力道山はブラジル遠征中で不在。その際、元野球選手の竹下民夫からプロレス入りを勧められました。
翌4月、ブラジル遠征から帰国した力道山に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられましたが難なくこなし、その場で入門が決定しました。この時、力道山は馬場の潜在能力を見抜き、巨人時代と同額の月給5万円(当時の大卒初任給は約1万6千円)という破格の待遇を約束しました。
野球で鍛えた肉体がプロレスを制する
野球で培った体力と脚力は、プロレスラー・ジャイアント馬場の武器となりました。16文キックという必殺技は、巨人時代に多摩川の土手で急坂上がりのトレーニングを繰り返し、鍛え上げた強靭な右足から生まれたものでした。
修行時代、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木寛至とヒンズースクワットを行った際には、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説が残っています。この厳しい修行を乗り越え、馬場は1960年9月30日にデビュー戦を勝利で飾ります。
1961年7月には武者修行のため渡米し、「ショーヘイ・ビッグ・ババ」や「ババ・ザ・ジャイアント」のリングネームで活躍。1963年に力道山とともに帰国し、この時「ジャイアント馬場」と改名しました。
プロレス界の頂点へ──NWA世界王座3度獲得
力道山亡き後、日本プロレス界のエースとして活躍した馬場は、1965年にインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1972年には全日本プロレスを旗揚げし、社長として経営手腕も発揮しました。
日本人として初めてNWA世界ヘビー級王座に就き、通算3度(1974年、1979年、1980年)も世界チャンピオンとなった偉業は、当時アメリカで年俸10億円という破格の評価を受けるほどでした。1993年には5000試合出場を達成し、1999年1月31日に61歳で逝去するまで、生涯現役を貫きました。
野球断念が生んだプロレス界の巨星
もし馬場があの怪我をせず、大洋ホエールズで活躍していたら。プロレス界の歴史は大きく変わっていたでしょう。しかし、野球選手としての挫折があったからこそ、日本プロレス界を代表する偉大なレスラーが誕生したのです。
引退記念試合で、長年のライバルであり友人でもあったブルーノ・サンマルチノは馬場にこう語りかけました。「君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった」。この言葉は、挫折を乗り越えてスポーツへの情熱を貫き通した馬場正平という男の人生を、最もよく表しているのかもしれません。


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