戦後日本を震撼させた27歳の天才起業家
1949年11月24日深夜、銀座のオフィスで一人の東大生が青酸カリを飲み干した。机の上には自らの写真が飾られ、部屋には線香が焚かれていた。遺書の最後には「貸借法すべて青酸カリ自殺 晃嗣 午後11時48分55秒呑む。午後11時49分ジ・エン」と書き残され、「ジ・エンド」の文字は完成することなく途切れていた。
山崎晃嗣は三島由紀夫の『青の時代』や高木彬光の『白昼の死角』などの小説のモデルとなった人物であり、わずか1年足らずで栄光と破滅を駆け抜けた「光クラブ事件」の主人公である。
光クラブの革新的ビジネスモデル
1948年9月、山崎は自分の頭の良さを客観的に確認するために金貸し業を開始し、東京都中野区鍋屋横丁に「光クラブ」を設立した。当時26歳の東大法学部生だった山崎は、友人の日本医大生・三木仙也を専務に迎え、自ら社長に就任する。
その手法は極めて大胆だった。初期資金1万5000円のすべてを新聞広告に投資し、「年中無休!天下の光クラブ、弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社」「遊金利殖、月一割保証」という文句で出資を募った。
その時代背景が光クラブの成功を後押しした。当時の銀行金利は年利1.83%で、100万円を1年間預けても月間利息は約1500円にしかならなかったが、光クラブの場合は出資者として100万円を出資すれば月に1万5千円ほど配当をもらえた。年利にして約18%という破格の条件である。戦後の混乱期、闇成金から資産家まで多くの人々が光クラブに殺到した。
集まった資金は、商店や中小企業に月利21%から30%という高利で貸し付けられ、その利ザヤが光クラブの収益源となった。東大生が経営する金融会社という斬新なイメージと、「光クラブ」という洗練された社名が、当時としては画期的なブランディングとなったのである。
わずか4ヶ月で銀座進出──急成長の軌跡
光クラブの成長スピードは驚異的だった。中野で創業してからわずか半年間で銀座に進出し、資本金600万円、株主400名、従業員30名の会社にまで成長した。現在の価値に換算すれば数億円規模の企業である。
山崎の経営哲学は徹底していた。「光クラブ五箇条」として次の原則を掲げていた。
一、権利のための闘争だ
二、人生はすべてこれ劇場なり
三、金利の鬼となれ
四、バクチには生命を賭けよ
五、ヒトのものはわがもの 自分のものは自分のものと思え
返済能力のある金持ちだけでなく一般人も金貸しの対象としたのは、当時としてはかなり画期的なことだった。そのリスクを補うため、山崎は暴力団の力も借りる徹底した債権回収を行った。
天才の偏執性──人間不信の根源
山崎晃嗣という人物を理解するには、その生い立ちと戦争体験を知る必要がある。医師・木更津市市長だった山崎直と、渋沢家の血を引く妻・総子の五男として、1923年1月23日、木更津市に生まれた。旧制第一高等学校から東京帝国大学法学部に進学したエリート中のエリートだった。
しかし、学徒出陣により陸軍主計少尉に任官し北海道旭川市の北部第178部隊の糧秣委員少尉として終戦を迎える。この軍隊経験が山崎の人間観を決定的に歪めることになる。訓練中、上官の私的制裁により一高時代の同級生を殺されるが、上官命令により内密にさせられ、正しく軍法会議が開かれることはなかった。
この経験から生まれたのが、「人間の性は、本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾であるが故に、私は人間を根本的に信用しない」という山崎晃嗣のモットーだった。
山崎の日常生活は病的なまでに管理されていた。出来事が分刻みで書かれたスケジュール帳が存在し、その横に◎・○・△の評価がつけられていた。○は将来のために有効に使われた時間、×は失敗への反省、△はどうでもよいことに費やされた時間を示した。興味深いことに、女性との逢瀬は△の欄に記録されていた。
実際、山崎晃嗣の周囲には常に6人程度の愛人がいたとされ、愛人の一人の智子が妊娠した際には堕胎させている。彼にとって人間関係は全て計算の対象であり、感情的なつながりは存在しなかったのである。
物価統制令違反──転落の始まり
絶頂期にあった光クラブに転機が訪れる。1949年7月、山崎晃嗣が物価統制令違反で逮捕された。本来は戦後の物価高騰を取り締まる法律だったが、光クラブの高額な利子が対象となったのだ。
しかし、ここで山崎の法律知識が発揮される。光クラブは株式組織であり、出資者は株主である。つまり支払われているのは利息ではなく配当金だと主張したのである。配当金の上限を規制する法律は当時存在しなかった。この論理展開により、山崎は2ヶ月後に処分保留で釈放される。
だが、この逮捕が致命傷となった。山崎晃嗣の逮捕により、光クラブは顧客の信用を失って業績は悪化。ワンマン経営者の不在中、業務はストップし、出資者たちは次々と資金の引き上げを要求した。
社名を変更して資金調達を試みたが失敗。株の空売りによる最後の賭けも実を結ばなかった。光クラブは3600万円の債務不履行に陥った。現在の価値に換算すると約18億円という莫大な負債である。
追い詰められた山崎は、東大の後輩で出資者の一人だった藤田田(後の日本マクドナルド・日本トイザらス創業者)にも相談したが、「法的に解決することを望むなら、君が消えることだ」とバッサリ断られたという。
さらに皮肉なことに、愛人のひとりが実は税務署からのスパイで、彼女によって光クラブの実態が密告され逮捕となった。人間を信用しないはずの山崎が、最後は女性に裏切られたのである。
駄洒落に満ちた遺書──最期の演出
1949年11月24日、債務返済期限の前日。山崎晃嗣は銀座の本社で青酸カリを飲んで自殺した。享年27歳。
遺書は5枚の書簡紙に書かれ、駄洒落に満ちた異様な内容だった。
「御注意、検視前に死體(体)に手をふれぬこと。法の規定するところなれば、京橋警察署にただちに通知し、検視後、法に基き解剖すべし。死因は毒物。青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡したる者が本當(当)のことをいったかどうかは確かめられし)。死體はモルモットと共に焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に賣(売)却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)」
そして最後まで彼らしく、「出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡あり。お疑いあればアブハチとらずの無謀かな。高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわればナル……氷カシ(貸─自殺して仮死にあらざる証依而如件)」という言葉遊びで締めくくられていた。
机の上には額縁に入った自らの写真を飾り、香を部屋いっぱいに焚きしめ、1週間前から綴っていた遺書を前にしての、まるで死への旅立ちを祝うかのようであった。「人生は劇場だ」と豪語していた山崎にとって、自らの死さえも演出すべき舞台だったのである。
戦後日本の光と影
光クラブ事件は「アプレゲール犯罪」(戦後派犯罪)の代表例として語り継がれている。旧来の価値観が崩壊し、新しいモラルが模索された時代の象徴的事件だった。
山崎の死後、彼が残した手記が『私は天才であり超人である 光クラブ社長山崎晃嗣の手記』(1949年)、『私は偽悪者』(1950年)の名前で刊行された。さらに2007年10月26日、東京・神田神保町の神田古書店街で開かれた古本まつりに、光クラブ設立前夜の1946年3月から1947年12月までの1年半余にわたる日記が出品された。
天才的な頭脳、冷徹な人間観察、そして自らの死すらも演出する美学。山崎晃嗣という人物は、戦後日本の混乱期に輝き、そして散った一つの流星だった。
その短い生涯は、現代のベンチャー企業の急成長と転落、法律の隙間を突くグレーゾーンビジネス、そして人間の本質的な孤独という普遍的なテーマを含んでいる。
遺書の中で山崎は和歌を残している。「望みつつ心やすけし散る紅葉理知の生命のしるしありけり」──理性と論理を信じた天才の、最後の言葉である。



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