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五代友厚とは?「東の渋沢、西の五代」と称された大阪経済の父の生涯と功績

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近代大阪の礎を築いた男・五代友厚

「東の渋沢、西の五代」──この言葉をご存じでしょうか。東京に渋沢栄一がいたように、大阪には五代友厚という傑出した実業家がいました。

明治維新後、衰退の一途を辿っていた大阪を「東洋のマンチェスター」と呼ばれる商工業都市へと変貌させた男。それが五代友厚です。

現代の大阪経済の骨格は、実は明治時代に五代が描いた設計図の上に成り立っています。大阪証券取引所、大阪商工会議所、造幣局──これらはすべて五代の構想から生まれました。

薩摩藩士から実業家へ──五代友厚の波乱万丈な人生

開国の衝撃と海外への目覚め

天保6年(1835年)、薩摩藩に生まれた五代友厚は、若き日に薩英戦争を経験します。この敗北が彼の価値観を大きく変えました。「西洋の文明と技術を学ばねば、日本に未来はない」──そう確信した五代は、慶応元年(1865年)、藩命により欧州視察団の一員としてイギリス、フランス、ベルギーなどを巡ります。

この欧州視察で五代が目にしたもの。それは株式会社制度、銀行システム、取引所──近代資本主義の仕組みでした。産業革命を成し遂げたイギリスの繁栄を目の当たりにし、五代の心には「日本にもこの制度を」という強い使命感が芽生えました。

大阪との運命的な出会い

明治維新後、新政府の参与として活躍した五代でしたが、明治2年(1869年)に官職を辞し、実業家としての道を歩み始めます。彼が拠点に選んだのが大阪でした。

当時の大阪は深刻な危機に瀕していました。江戸時代、「天下の台所」として繁栄した大阪でしたが、明治維新により状況は一変。首都が東京に移り、大名たちの蔵屋敷が次々と閉鎖され、商人たちは職を失いました。人口は激減し、かつての活気は失われていたのです。

しかし五代は、この衰退した都市に大きな可能性を見出していました。

五代友厚が築いた大阪経済の三本柱

1. 大阪株式取引所の創設──資本主義の心臓部

明治11年(1878年)、五代は大阪株式取引所(現在の大阪取引所の前身)を設立します。これは東京に次いで日本で2番目の株式取引所でした。

当時の日本人にとって、株式という概念は全く馴染みのないものでした。「紙切れに値段がつく」という仕組みを理解できる人は少なく、多くの商人は懐疑的でした。しかし五代は粘り強く説得を続けます。「企業が資金を集め、事業を拡大する。投資家も利益を得る。これが近代経済の仕組みだ」と。

五代の情熱は実を結び、大阪株式取引所は徐々に取引を拡大。大阪経済復興の起爆剤となりました。

2. 大阪商法会議所──商工業者の結集

明治11年、五代は大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)を設立し、初代会頭に就任します。これは日本最古の商工会議所の一つです。

五代の構想は明確でした。「個々の商人が孤立していては、近代産業に太刀打ちできない。商工業者が団結し、共通の利益を追求する組織が必要だ」──この考えのもと、商法会議所は商工業者の権益保護、取引の近代化、人材育成などに取り組みました。

商法会議所は、単なる親睦団体ではありませんでした。港湾整備、鉄道敷設、教育機関の設立など、大阪の都市基盤整備に積極的に関与し、政府に対して提言を行う圧力団体としての役割も果たしたのです。

3. 鉱山・紡績業の育成──産業の多角化

五代は金融だけでなく、実体経済の発展にも力を注ぎました。彼が特に注力したのが鉱山業と紡績業です。

大阪製銅会社、阪堺鉄道会社、大阪紡績会社など、五代が設立または経営に関わった企業は実に50社以上。彼は自ら資金を投じ、時にはリスクを取りながら、次々と新事業を立ち上げました。

特に注目すべきは、単に利益を追求するだけでなく、日本の産業構造そのものを変革しようとした点です。綿花を輸入に頼る日本の弱点を克服するため、国内での綿花栽培を推進。紡績業を育成することで、繊維産業の国際競争力を高めようとしました。

人を動かす五代友厚の手腕

五代の真の才能は、人を動かす力にありました。

彼は決して独断専行するタイプではありませんでした。むしろ、周囲の商人や実業家たちの意見に耳を傾け、彼らの利益と日本の発展を両立させる道を模索しました。「共存共栄」──これが五代のビジネス哲学でした。

また、五代は若い世代の育成にも熱心でした。商法会議所を通じて商業教育を推進し、実業界で活躍できる人材を次々と輩出。彼が育てた人材の中には、後に関西財界の重鎮となる者も少なくありませんでした。

五代友厚の遺産──現代に続く影響

明治18年(1885年)、五代友厚は49歳という若さでこの世を去ります。しかし、彼が蒔いた種は大きく育ちました。

五代が創設した大阪株式取引所は、戦後の改組を経て大阪証券取引所となり、2013年には東京証券取引所と統合。日本を代表する金融市場の一翼を担っています。

大阪商工会議所は今も大阪経済界の中核組織として機能し、地域経済の発展に貢献し続けています。

五代が育成した紡績業は、やがて日本の主要輸出産業へと成長。20世紀前半、日本は世界最大の綿製品輸出国となりました。

なぜ五代友厚は忘れられていたのか

渋沢栄一ほど広く知られていない五代友厚。その理由の一つは、活動期間の短さにあります。実業家としての活動はわずか16年。病に倒れるまで全力疾走した人生でした。

しかし、2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で俳優ディーン・フジオカが五代を演じたことをきっかけに、その功績が再評価されるようになりました。大阪市内には五代友厚の銅像が建ち、多くの人が彼の足跡を辿るようになっています。

五代友厚から学ぶ現代への教訓

五代友厚の生涯から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。

第一に、ビジョンの力です。五代は常に10年、20年先を見据えて行動しました。目先の利益ではなく、大阪、そして日本の未来のために何が必要かを考え続けました。

第二に、実行力です。構想だけで終わらせず、自ら動き、人を動かし、制度を作り上げました。批判や失敗を恐れず、前進し続ける勇気がありました。

第三に、協調の精神です。一人では何も成し遂げられないことを知っていた五代は、常に仲間を集め、協力関係を築きました。

「東の渋沢、西の五代」──この言葉は、単なる地域の対比ではありません。それぞれが異なるアプローチで、日本の近代化に貢献した二人の巨人への敬意の表れなのです。

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