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日本の車いすバスケットボール普及と小川祥汰選手の軌跡をシラベテミタ!

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車いすバスケットボールの日本での普及

起源と初期の導入

車いすバスケットボールは、1940年代にアメリカで考案されて以降次第に普及した競技である。日本に車いすバスケの起源は、1960年に国立別府病院の中村裕博士が、イギリスで車いすバスケットボールを考案したグッドマン博士が働いていた、ストーク・マンデビル病院に派遣されたことから始まります。

日本では1960年ごろに普及し始め、1961年に開催された第一回大分身体障害者体育大会では、初めて車いすバスケットボールのデモンストレーションが行われました。その後、1964年に行われた東京パラリンピックを契機に全国的に普及し、1970年には、我が国初めての「第1回車椅子バスケットボール全国大会」が開催されました。

組織的発展

東京パラリンピック後徐々に盛んになり、1975年に日本車椅子バスケットボール連盟が結成された。この連盟の設立により、日本の車いすバスケットボールは組織的な発展を遂げることになった。

現代への発展

東京2020パラリンピックの開催が決定すると、車いすバスケットボールを取り巻く環境は大きく変わった。それまで車いすユーザーの体育館やジムの利用は「床に傷がつくから」「対応できる人間がいないので」などという理由から断られるケースが少なくなかったが、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定をきっかけに、パラリンピック競技への理解が深まり、逆に自治体の方から合宿地として名乗りを上げるようになった。

車いすバスケットボールのルールと持ち点システム

基本ルール

車いすバスケットボールは、通常のバスケットボールとほぼ同様のルールで行われる。一般のバスケットボールと同じで、1チームは最大12名で構成され、コート上には5名が出場する。

競技特有のルールとして、選手がボールを持っているときに車いすを手で漕ぐこと(プッシュ)は連続2回までです。3回以上プッシュするとトラヴェリングとなり、相手チームのスロー・インとなりますというプッシュルールがある。

持ち点システム

車いすバスケットボールの最大の特徴は、公平性を保つための持ち点システムである。車いすバスケットボール独自のクラス分けとして、選手は障がいの程度に応じた持ち点(1.0点〜4.5点の0.5点きざみで数字が大きいほど障がいが軽い)が定められている。

コート上の5名の持ち点の合計点が常に14点以内となるようにチームを編成しなければいけない規定があり、これによって障がいの軽い選手だけでなく重い選手にも出場機会が確保される。このシステムにより、さまざまな障がいレベルの選手が共にプレーできる環境が整備されている。

車いすの特徴

競技用車いすは高度にカスタマイズされており、タイヤの角度が大きくなると回転性能が高くなり、小さくなると直進性能が高くなる。選手たちは障がいの程度やプレースタイルに合わせてカスタマイズをして、バランスを細かく調整している。

小川祥汰選手の生涯と活躍

高校時代まで

小川さんは小学4年でバスケットボールを始めた。小中では主将を務め、高校でも1年から主力として活躍していた。しかし、長崎北陽台高で通常のバスケットボールに励んでいた2018年4月、骨のがんである骨肉腫の告知を受け、左脚の切断を余儀なくされた。

当時3年生。最後の県高総体にも出場できずショックは大きかったが、両親を悲しませたくないと気丈に振る舞い、病室で1人涙した日もあったという。若きバスケットボール選手にとって、これは人生を大きく変える出来事であった。

車いすバスケットボールとの出会い

小川祥汰さんは、2019年に「長崎サンライズ」に入部。高校卒業後、新たなバスケットボール人生を車いすバスケットボールで歩み始めた。

キャプテンとしての活躍

チームでは主将を務めるまでになり、「第43回朝日九州車いすバスケットボール選手権」では、チームを3位に導いた。(キャプテンになって)まだ8カ月くらいですね。全然なったばっかりなんですけどと話していたが、その短い期間でもチームに大きな影響を与えている。

車いすバスケット自体が年齢層が結構幅広いのもあって、皆さんの意見をうまくチームに取り入れるというのが難しい半面、そこはしっかりチームの雰囲気にもつながるので、キャプテンとしてうまく皆をまとめるというのもそうなんですけど、チームで頼られる存在になりたいと、リーダーシップへの強い意識を持っていた。

若きリーダーとしての姿勢

若い選手がすごく多いチームではあるのでその若さを武器にしたバスケットを展開することを目指していた小川選手は、チームの特色を活かした戦術の構築にも尽力していた。男子車いすバスケのU-23 強化指定選手に選ばれるなど、将来を嘱望される選手でもあった。

病魔との闘いと最期

関係者によると、2023年暮れに体調を崩してから入院し、病と闘い続けたが、2024年2月に23歳でこの世を去った。。

世代別日本代表候補にも名を連ねた逸材であったが、病魔と闘い、少しでも長くコート上で生きたいと願った小川祥汰さんの勇姿は、多くの人々の心に深く刻まれている。

追悼と遺志の継承

最期まで車いすバスケを愛した小川さんを追悼する試合が長崎市で開かれました。ゆかりのある選手たちがプレーしたこの追悼試合では、小川選手が車いすバスケットボールに注いだ情熱と、チームメイトや関係者に与えた影響の大きさが改めて確認された。

まとめ

日本の車いすバスケットボールは、1960年代の導入から現在に至るまで着実に発展を続けてきた。持ち点システムという独自のルールにより、さまざまな障がいレベルの選手が共にプレーできる公平性の高い競技として確立されている。

小川祥汰選手の短くも濃密な車いすバスケットボール人生は、スポーツが持つ力強さと、人間の不屈の精神を象徴するものであった。高校時代の病気から車いすバスケットボールとの出会い、そして若きキャプテンとしての責任感とチームへの献身は、多くの人々に深い感動を与え続けている。彼の遺志は、長崎サンライズをはじめとする車いすバスケットボール界で受け継がれ、競技のさらなる発展に寄与していくことだろう。

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