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西郷隆盛の写真が少ない理由…歴史の闇|日本最大の英雄なのに”顔が謎”のワケ

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歴史
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1|西郷隆盛の”本当の顔”は、誰も知らない?

明治維新を語るとき、必ずその名が挙がる人物がいる。

西郷隆盛。

薩摩藩士として倒幕運動を牽引し、新政府樹立に大きく貢献した「維新三傑」の一人。上野公園の銅像、教科書の肖像画、そのどっしりとした風貌は多くの日本人が知っている。

しかし、ここで一つ問いたい。

あなたが「西郷隆盛の顔」だと思っているその顔は、本当に西郷隆盛の顔なのだろうか?

実は、西郷隆盛本人が写ったと確認されている写真は、現在に至るまで一枚も存在しない。日本近代史における最重要人物の一人でありながら、その「本当の顔」は謎に包まれたままなのだ。

なぜ、これほどの歴史的人物の写真が残っていないのか。そして私たちが「西郷の顔」として慣れ親しんできたあの肖像は、一体何者の顔なのか。今回は、その知られざる謎に迫る。

2|教科書に載っているあの顔——実は”想像で描かれた”肖像だった

まず確認しておきたいのが、最もよく知られた西郷隆盛の肖像画についてだ。

あの肖像を描いたのは、幕末・明治期に活躍した絵師・菊池容斎(きくちようさい)。精緻な人物描写で知られる実力者だ。しかし問題は、菊池容斎が西郷本人を見ながら描いたわけではない、という点にある。

では何を参考にしたのか。

制作にあたって参照されたのは、西郷の実弟である**西郷従道(つぐみち)**をはじめとする、西郷を実際に知る人物たちの証言や記憶だったとされている。つまりあの肖像画は、複数の人間の記憶と証言をもとに「再現」されたイメージ画像に過ぎないのだ。

現代風に言えば、目撃者証言から作られる「モンタージュ写真」に近い性質のもの、と言えるかもしれない。

そう考えると、あの肖像を見る目が少し変わってくるのではないだろうか。私たちが「西郷隆盛の顔」として脳裏に刻んできたイメージは、本人の顔を直接記録したものではなかったのだ。

3|なぜ写真が残っていないのか——3つの理由

19世紀後半、写真技術はすでに日本にも伝わっていた。西郷が生きた時代(1828〜1877年)には、薩摩藩士や政府の要人たちが撮影した写真が多数残っている。にもかかわらず、西郷の写真だけがない。なぜか。考えられる理由は主に3つある。

①写真嫌いだった説

西郷隆盛は写真撮影を極端に嫌っていたという逸話が、複数の文献に残されている。当時の人々の中には、写真に撮られると「魂が抜かれる」と信じる者も少なくなかった。西郷がそうした信念を持っていたかどうかは定かではないが、彼が撮影を頑なに拒んでいたとすれば、写真が残らないのも当然の話だ。

②政治的理由による意図的な排除

西郷は晩年、明治新政府と深刻な対立を抱えていた。「征韓論」をめぐる論争で政府を去り、故郷の鹿児島に戻った西郷は、やがて不平士族の精神的支柱となっていく。政府にとって西郷は、潜在的な反乱の象徴ともいえる存在だった。

そのような政治的な緊張関係の中で、西郷に関する記録や写真が意図的に管理・排除された可能性は十分に考えられる。権力者にとって都合の悪い人物の記録が「消える」のは、歴史上珍しくない現象だ。

③西南戦争による資料の消失

1877年(明治10年)に勃発した西南戦争は、西郷を担ぎ上げた不平士族が政府軍と激突した、明治時代最大の内乱だ。この戦争で西郷は敗れ、鹿児島・城山において自刃して果てた。

戦乱の中では当然、多くの資料や記録が失われる。仮に西郷の写真が存在していたとしても、この戦争の混乱の中で消失してしまった可能性は非常に高い。さらに、賊軍の将として扱われた西郷に関する記録を、人々が意識的に手放した可能性も否定できない。

4|「西郷隆盛の写真」は本当にゼロなのか——フルベッキ写真の謎

ここで、長年にわたって議論されてきた一枚の写真を紹介したい。

フルベッキ写真——。

これは、明治政府の顧問として活躍したオランダ系アメリカ人宣教師・グイド・フルベッキが、多数の日本人と共に写った集合写真だ。この写真に写る人物の中に、西郷隆盛が含まれているのではないかという説が長年語られてきた。

確かに写真の中には、西郷の肖像画と雰囲気が似た大柄な人物が写っている。そのため「これこそ本物の西郷の写真だ」と主張する研究者や歴史愛好家も少なくない。

しかし——。

現在の多くの研究者はこの説を否定している。撮影時期や写真に写る人物の年齢・背景を詳細に検討すると、その人物が西郷である可能性は極めて低いという結論が導き出されているのだ。

つまり現時点では、西郷隆盛の写真と確認できるものは一枚も存在しないというのが、歴史学の共通認識となっている。

5|なぜ西郷の顔は今も謎のままなのか

日本史上これほどの影響力を持った人物の顔が、なぜ確定できないのか。その背景には、いくつかの要因が複雑に絡み合っている。

まず写真技術の普及状況。西郷が活躍した幕末・明治初期は、写真がまだ一般に広まりきっていない過渡期だった。撮影できる場所や機会は限られており、意識的に記録を残そうとしなければ、写真が残らないことも珍しくなかった。

次に西郷の政治的立場。維新の功労者でありながら、最終的に政府と対立し「賊軍の将」として命を落とした西郷は、政治的に非常にデリケートな存在だった。彼に関する記録を積極的に保存しようという動機が、少なくとも政府側には乏しかったはずだ。

そして西南戦争の破壊力。この内乱がもたらした混乱と破壊は、西郷に関連する多くの資料を歴史の中に葬り去った。

これらの要因が重なり合った結果、日本近代史最大の人物の一人でありながら、西郷隆盛の「本当の顔」は今も確定されないままとなっている。

6|上野の銅像は”誰の顔”なのか

話を銅像に移そう。

東京・上野恩賜公園に建つ西郷隆盛像。浴衣姿で犬を連れたその姿は、日本で最も有名な銅像の一つだ。制作したのは、明治を代表する彫刻家・高村光雲(たかむらこううん)。1898年(明治31年)に除幕された。

しかしこの銅像もまた、本人を直接見て制作されたものではない。

高村光雲は、西郷の弟・西郷従道や、西郷を実際に知る人物たちへの取材と証言をもとにして、この像を完成させたとされている。つまりあの銅像の顔も、肖像画と同様に「関係者の記憶から再現されたもの」なのだ。

除幕式に出席した西郷の妻・糸子は、完成した銅像を見てこう言ったという。

「うちの人はこげんお人じゃなかった」——「夫はこんな人ではなかった」という意味だ。

この言葉が事実なら、私たちが「西郷隆盛の顔」として長年見てきたあの銅像の顔でさえ、本人とは異なる可能性があることになる。妻の証言が持つ重みは決して小さくない。

7|結論——西郷隆盛は「顔すら謎の英雄」

ここまで見てきたように、西郷隆盛に関しては以下のことが言える。

  • 本人が写ったと確認できる写真は、現時点で一枚も存在しない
  • 最も有名な肖像画は、本人を見ずに描かれた「再現イメージ」である
  • 上野の銅像も、本人を直接見ずに制作されたものである
  • 妻でさえ「夫とは似ていない」と評した可能性がある

写真嫌いだったのか、政治的に抹消されたのか、戦乱で消えたのか——真相は今も謎のままだ。

維新を動かし、時代を変え、最後は自らの信念のために命を賭けた男。その生き様はあまりにも鮮烈に歴史に刻まれているのに、その顔だけは、いまだ霧の中に隠れている。

西郷隆盛とは、「顔すら謎の英雄」として歴史に残り続ける、稀有な存在なのだ。

そう考えると、上野の銅像を見上げるとき、少し違う感慨が生まれてこないだろうか。あの顔は西郷隆盛かもしれないし、そうでないかもしれない。その曖昧さの中にこそ、歴史の奥深さと、西郷という人物の底知れぬ謎が宿っている。

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