「1・2・3・ダーッ!」
この一声で会場を熱狂させた男、アントニオ猪木。日本のプロレス界に革命を起こし、国民的スターにまで上り詰めた彼の「お金の話」は、意外なほど語られてこなかった。
黄金期には年収数億円とも言われる一方で、数十億円の借金を抱えた時期もあったとされる猪木の経済的な実像とは、いったいどんなものだったのか。
アントニオ猪木とは――「燃える闘魂」の軌跡
1943年生まれのアントニオ猪木(本名:猪木寛至)は、10代でブラジルに渡り、力道山にスカウトされてプロレスの道へ進んだ。
1972年に新日本プロレスを旗揚げし、オーナー兼エースレスラーという二足のわらじを履いた。テレビ中継との相乗効果もあり、1970〜80年代の日本ではプロレスが空前のブームを迎えた。その中心にいたのが常に猪木だった。
強烈なキャラクター、派手な試合演出、そして「異種格闘技戦」という革命的なコンセプトで、猪木はプロレスラーの枠を超えた存在となった。
プロレス黄金時代の推定年収
具体的な確定数字は公開されていないが、業界関係者の証言や各種メディアの報道をもとに推定すると、1980年代の全盛期における猪木の年収は数億円規模だったと考えられている。
収入の内訳は複数の柱から成り立っていた。
ファイトマネーについては、トップレスラーとしての試合出場料に加え、自団体の看板レスラーとしての「社長報酬」も含まれていた。ビッグマッチのメインイベントでは、一試合で数千万円規模のファイトマネーが発生したとも言われている。
テレビ放映権料も大きな収入源だった。当時の新日本プロレスはテレビ朝日との中継契約を結んでおり、全国ネットでの放送が視聴率を稼いだ。放映権収入は団体全体の収益を押し上げ、オーナーである猪木の取り分も相応に大きかった。
スポンサー収入・グッズ販売も無視できない。「猪木グッズ」は全国の会場で飛ぶように売れ、Tシャツ、タオル、ポスターなどの商品が安定した収益をもたらした。
最大の収入源は「興行ビジネス」だった
猪木の収入を語るうえで欠かせないのが、彼が「プロモーター」でもあったという事実だ。
新日本プロレスは猪木が1972年に自ら設立した団体であり、猪木はリングの上で戦いながら、興行全体のビジネスも統括していた。
チケット収入、テレビ放映権、スポンサー料、グッズ売上を束ねた団体の年間売上は、人気絶頂期において数十億円規模に達していたと各所で報じられている。オーナーとしての取り分がそのまま猪木個人の収入になっていた側面も大きく、選手としての年収と経営者としての収入を単純には切り分けられない構造だった。
当時のプロレス業界は今と違い、地上波ゴールデンタイムの中継が視聴率を稼いでいた時代だ。「テレビでプロレスを見る」ことが国民の娯楽だった1980年代において、新日本プロレスのブランド価値は今では想像もつかないほど高かった。
「世紀の一戦」が猪木の価値を世界へ
1976年6月26日、東京・日本武道館で行われたアントニオ猪木対モハメド・アリ戦は、「格闘技の世紀」と呼ばれた伝説の一戦だ。
世界ヘビー級チャンピオンであるボクシングの英雄と、プロレス界のトップスターが戦うという前代未聞の試合は、世界40ヵ国以上に中継された。試合内容は賛否両論を呼んだが、この一戦によって猪木の名前は世界的に知られることになった。
ファイトマネーの詳細は諸説あるが、当時の規模としては破格の契約だったとされており、猪木の「商品価値」をグローバルに引き上げるきっかけとなった。アリ戦以降、猪木は国内だけでなく海外でもビッグマッチを組むことができる数少ない日本人レスラーとなったのだ。
プロレス以外の収入――政治家・タレントとしての顔
1989年、猪木はスポーツ平和党を設立し参議院議員に当選。政治家としての活動もスタートした。
議員報酬は現在でも年間2,000万円超(文書通信交通滞在費等含む)とされており、猪木もその水準の収入を得ていたと考えられる。ただし猪木にとっての政治活動は純粋な収入源というより、「スポーツ外交」を実現するための手段だったと語られることが多い。
また晩年まで続けたテレビ出演、講演活動、イベント出演も収入の柱だった。「燃える闘魂」のブランドは引退後も健在で、各種メディアやプロレスイベントへの出演依頼は途切れることがなかった。
「数十億円の借金」という現実
輝かしい経歴とは裏腹に、猪木の財務状況は波乱に満ちていた。
1990年代以降、猪木はプロレス以外の事業に相次いで投資した。北朝鮮でのビジネス、レストラン経営、その他さまざまな新規事業への挑戦がことごとくうまくいかず、累積すると数十億円規模の負債を抱えたと複数のメディアが報じた。
ただし猪木本人は「借金は全部返した」と後年のインタビューで語っており、その後も精力的に活動を続けた。どん底から復活する姿は、リングの外でも「猪木らしさ」を発揮していたとも言えるだろう。
晩年の経済状況
2000年代以降の猪木は、病気との闘いが続きながらも講演活動やイベント出演で収入を確保していた。2019年頃からは全身性アミロイドーシスという難病の治療が続き、活動の規模は縮小されていった。
しかしその間も、プロレス関連のイベントや新日本プロレス系の催しには顔を出し続けた。「猪木が来る」というだけでチケットが売れる。そのブランド力はレスラー引退後も失われることがなかった。
2022年10月1日、アントニオ猪木は79歳でその生涯を閉じた。
まとめ――猪木の「お金」が教えてくれること
アントニオ猪木の経済的な歩みを振り返ると、「稼ぐ力」と「使い方」のギャップが浮かび上がってくる。
黄金期の年収は数億円規模に達し、興行ビジネス全体では数十億円の売上を誇った。しかし投資と事業拡大への飽くなき挑戦が、巨額の借金を生んだ。それでも再起し、晩年まで第一線に立ち続けた。
猪木の人生は、リングの中と外で常に「闘い」だった。お金に関しても、それは変わらなかった。勝ったり負けたりを繰り返しながら、最後まで前へ進み続けた姿こそが、「燃える闘魂」の本質だったのかもしれない。


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