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陸奥宗光は英雄か策士か?投獄された理由と評価が分かれる人物像を解説

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「カミソリ大臣」と「嘘つきの小次郎」―二つの顔を持つ男

明治政府で外務大臣を務め、不平等条約の改正を実現させた陸奥宗光は「日本外交の父」と呼ばれる一方で、若い頃は弁舌が立つ才子だったが同輩からの評判は甚だ悪く、勝海舟によれば「嘘つきの小次郎」とあだ名されたという相反する評価を受けている人物です。

なぜこれほどまでに評価が分かれるのでしょうか。その謎を解く鍵は、彼の波乱に満ちた人生と、巧みな政治手腕、そして投獄という挫折の経験にあります。

投獄された理由―西南戦争における「二重スパイ」疑惑

1877年の西南戦争の際に、政府転覆を狙っていた土佐派の人物らと陸奥が連絡を取り合っていたことが翌年に発覚し、禁錮5年の刑を受け投獄されたというのが表向きの理由です。しかし実態はより複雑でした。

陸奥は元老院仮副議長でありながら、立志社の林有造や大江卓らが武力蜂起と暗殺による政府転覆を謀っていた際、土佐派と連絡を取り合っていたのです。ところが興味深いことに、西南戦争という戦時に乗じて西郷が政府を倒した後に板垣らが政府を作り主導していこうという話を陸奥は耳にしており、そのストッパー役として土佐派に潜り込んでいたという見方もあるのです。

つまり陸奥は反政府勢力のスパイとして動いていたのか、それとも政府側のスパイとして反乱を防ごうとしていたのか―その真意は今も謎のままです。結果的に反政府側との接触が問題視され、1878年に山形刑務所に収監された後に仙台刑務所に移送され、5年後の1882年に出所したのです。

獄中で見せた驚異的な知的活動

投獄は陸奥にとって単なる挫折ではなく、むしろ転機となりました。獄中で陸奥は200冊の本を読破し、ジェレミー・ベンサムの『道徳および立法の諸原理』の翻訳という仕事をなし遂げたのです。

ベンサムの著作で使われている様々な概念や思想をどのような日本語に当てるのかを吟味しながら、陸奥は20回にも版を重ね翻訳を精査し、1883年に『利学正宗』として出版したという執念は、単なる時間つぶしではなく、西洋思想を深く理解し自分のものにしようとする強い意志の表れでした。

出獄後は伊藤博文の勧めでヨーロッパに留学し、政治制度や法制度を学びます。ウィーン駐在公使だった西園寺公望は陸奥の勉強ぶりを「陸奥の勉強は実に驚くべし」と伊藤博文に書き送っている ほどでした。

若き日の悪評―「嘘つきの小次郎」の真実

陸奥がなぜ策士と呼ばれるのか、その源流は若い頃の行動にあります。若い頃は胆力を頼む志士たちから軽薄な口舌の徒と目され、坂本龍馬も「弁舌が鋭利に過ぎて浪士に憎まれて不慮の禍に遭うかもしれない」と心配していたといいます。

しかしその口の上手さは、実は深い洞察力と先見性に裏打ちされたものでした。龍馬が設立した海援隊に参加した陸奥は、龍馬の右腕として商談や交渉を任されるようになり、若くして経営感覚や国際感覚を磨いたのです。坂本龍馬は陸奥宗光を高く評価し、「自分と陸奥だけは武士を辞めても十分生きていける」と語ったとされています。

「カミソリ大臣」としての功績―不平等条約改正の立役者

投獄と留学を経て政界に復帰した陸奥は、その真価を発揮します。1892年に第2次伊藤博文内閣の外務大臣に就任した陸奥宗光は、5年後に日本国内での行動を自由にすることを交換条件として、イギリスの治外法権を撤廃したのです。

これを皮切りに、アメリカ・イタリアなど全部で15ヵ国との条約改正にこぎつけ、治外法権についてはすべて撤廃することができたという偉業は、幕末以来の日本の悲願でした。この鋭い交渉術から「カミソリ大臣」の異名を取り、死後は「日本外交の父」と称されるようになったのです。

評価が分かれる理由―実利主義と権謀術数

陸奥宗光の評価が分かれる最大の理由は、彼の徹底した実利主義と、目的のためには手段を選ばない姿勢にあります。西南戦争での二重スパイ疑惑、若い頃の「嘘つき」という評判、そして「カミソリ」という異名―これらはすべて、陸奥が状況に応じて柔軟に立場を変え、最善の結果を導き出そうとした姿勢の表れです。

「たとえ上司であっても自分が認めた者でないと命令を無視したり、辞表をたたきつけたりした」という逸話がある一方、「自分の上司としてふさわしいと認めた人物には従順に接し、惜しみなくその才能を発揮した」という証言もあります。

つまり陸奥は、権威や建前ではなく実力と実績で人を判断し、日本の国益を最優先に考えた「リアリスト」だったのです。この姿勢が、道徳や忠義を重んじる人々からは「策士」と批判され、結果を重視する人々からは「英雄」と称賛される要因となりました。

病に倒れた外交官の最期

陸奥は肺結核により病床に伏せており、1896年には外務大臣を辞し、ハワイなどで療養生活を送り、1897年、54歳の時に息を引き取ったのです。1907年にはその功績が讃えられ、外務省に陸奥の像が建立されていることからも、その業績の大きさがうかがえます。

時代が求めた策士にして英雄

陸奥宗光は英雄なのか策士なのか―答えは「両方」です。若い頃の「嘘つきの小次郎」も、投獄された政府転覆計画への関与も、そして「カミソリ大臣」としての辣腕外交も、すべて同一人物の異なる側面に過ぎません。

激動の幕末明治を生き抜くために、彼は時に嘘もつき、時に二重スパイのような動きもし、時に権力に反抗もしました。しかしその根底には、日本を欧米列強と対等な国にしたいという一貫した信念がありました。投獄という挫折を学びの機会に変え、不平等条約改正という偉業を成し遂げた陸奥宗光は、まさに明治という時代が必要とした「策士にして英雄」だったのです。

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