事件の概要
2025年2月19日、兵庫県警加古川署は、SNS上の投稿をめぐり41歳の男を侮辱罪で逮捕した。
問題となった投稿は2024年9月27日。立憲民主党衆議院兵庫10区支部長(当時)の隠樹圭子氏に対してX(旧Twitter)上に「人としてヤバい人認定をしてます」などと書き込んだことが逮捕の理由とされている。
この一文が、日本中のSNSユーザーを巻き込む大論争の火種になった。
「これで逮捕されるのか」——ネットに走った衝撃
逮捕のニュースが報じられると、XをはじめとするSNS上では瞬く間に反応が広がった。
最も多かったのは純粋な驚きだ。「ヤバい人認定」というのは日常会話でも使われるくだけた表現であり、「こんな言葉でも逮捕されるの?」という声が相次いだ。
「”ヤバい人”って普通に使う言葉じゃないの。これが侮辱罪になるなら、SNSで何も言えなくなる」
「毎日同じような投稿してる人は全員逮捕対象になるのでは?」
「基準がわからない。政治家への批判はすべてアウトになる未来が来る気がして怖い」
こうした「表現の自由を侵害するのではないか」という懸念の声は非常に多く、ハッシュタグを通じてトレンド入りする勢いで拡散された。
一方で、全く逆の反応も同様に多数見られた。
「何度も繰り返し投稿されていたなら、それはもう嫌がらせ。被害を受けた側の気持ちを考えてほしい」
「政治家だろうが誰だろうが、個人への誹謗中傷は許されない。当然の逮捕だと思う」
「被害者が声を上げて、警察が動いた。これが正常な社会の姿では」
ネット上の反応は真っ二つに割れ、「行き過ぎた逮捕」派と「当然の措置」派が互いの主張をぶつけ合う構図になった。
鍵を握る「侮辱罪」の改正——知っておくべき法的背景
この論争を理解するには、2022年の侮辱罪の厳罰化を知っておく必要がある。
従来の侮辱罪は「拘留または科料」という非常に軽い刑罰しか規定されていなかったが、プロレスラーの木村花さんがSNS上の誹謗中傷を受けて亡くなった事件を契機に法改正が行われ、1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金が加えられた。
侮辱罪と名誉毀損罪の違いも重要な論点だ。名誉毀損が「具体的な事実を摘示して名誉を傷つける行為」であるのに対し、侮辱罪は「事実の摘示がなくても、公然と人を侮辱した場合」に成立する。つまり、根拠のない悪口や罵倒もその対象になりうる。
「ヤバい人認定」という表現が侮辱罪に該当するかどうかについて、ネット上では法的見解をめぐる議論も起きた。
「一投稿だけを切り取るのではなく、継続的な嫌がらせの文脈で判断すべき問題」
「この程度の表現が侮辱罪になるなら、法律の解釈が広がりすぎている」
「政治家は批判を受け入れる立場にある。しかし批判と侮辱は違う——その境界線の議論が必要」
法律の専門家に近いとみられるアカウントからも「投稿の頻度・文脈・他の投稿との組み合わせが立件の根拠になっている可能性がある」という分析がなされ、一定の説得力をもって拡散された。
「政治家への批判」か「個人への攻撃」か——論争の核心
今回の事件でネットが特に敏感に反応したのは、被害者が**政治家(当時は支部長)**だったという点だ。
民主主義社会において、政治家は国民から批判を受ける立場にある。政治的な意見や政策への反論は、表現の自由の中核をなすものだ。「政治家を侮辱罪で訴えることができるなら、政治批判そのものが萎縮する」という懸念は、単なる感情論ではなく、民主主義の原則に根ざした問題提起でもある。
しかしその一方で、政治家も一人の人間であり、人格を否定するような継続的な攻撃を受け続ければ精神的なダメージは計り知れない。「政治家だから何を言ってもいい」というロジックは、特定の職業の人間への人権侵害を容認することにもなりかねない。
「政治批判と個人攻撃は別物。”政策がおかしい”はOKで、”人としてヤバい”はアウトという線引き、実は理にかなっている気もする」
「でも、その線引きを警察や司法が恣意的に運用できる状況は危険。権力に都合よく使われる可能性がある」
「被害者が立憲民主党の政治家だったことで、”特定の政党を守るための逮捕”という陰謀論的な見方も出ているのが残念」
政党支持の文脈で解釈する向きも一部に見られ、議論は複雑な様相を呈した。
SNS時代の「言葉の暴力」——被害者の声なき声
今回の事件を「当然の逮捕」と見る側が共通して訴えていたのは、受け手の苦しみだ。
SNSにおける誹謗中傷は、その言葉の軽さとは裏腹に、受け取る側に深刻なダメージを与える。何千、何万もの人の目に触れる場所で「ヤバい人」と断じられることの精神的苦痛は、直接面と向かって言われる場合と変わらない——あるいはそれ以上かもしれない。
木村花さんの事件はその象徴だった。個々の投稿は「軽い悪口」でも、束になれば人一人の命を奪う凶器になる。そのことを社会は学んだはずだった。
「被害者が政治家かどうかに関わらず、標的にされた人間の恐怖と苦痛を想像してほしい」
「誰かを傷つけることに無頓着なままでいられる時代は終わった、ということだと思う」
こうした声は、リプライというよりも、静かな共感として拡散された。
ネット論争が浮かび上がらせた「現代の課題」
今回の事件に対するネットの反応は、大きく4つの問いを社会に投げかけている。
① 侮辱罪の「基準」はどこにあるのか どこからが侮辱で、どこまでが正当な批判なのか。法的な基準が曖昧なまま運用されれば、恣意的な適用を招く危険がある。
② 政治家への批判はどこまで許されるのか 民主主義における批判の自由と、個人の人格権の保護。この二つのバランスをどう取るかは、社会全体の問題だ。
③ 言葉の受け手の存在を忘れていないか 発信のしやすさゆえに、SNSでは言葉が「軽く」なりがちだ。しかし言葉は生身の人間に届く。その感覚を取り戻すことが、今この時代に求められている。
④ SNSと法律の整合性は取れているのか 侮辱罪の厳罰化から数年。運用の実態と社会の認識の間にはまだ大きなギャップがある。リテラシー教育と法的周知の両方が急務だ。
「ヤバい人」の一言が問いかけたこと
「人としてヤバい人認定をしてます」——この13文字が引き起こした事件は、SNS社会に生きる私たちに鋭い問いを突きつけた。
表現の自由か、個人の尊厳か。批判か、侮辱か。軽い言葉か、深い傷か。
どちらが正しいという単純な話ではない。だからこそ、これだけ多くの人がこれだけ激しく反応したのだろう。
今回の逮捕が、SNSにおける言葉の使い方を今一度立ち止まって考えるきっかけになるとすれば、それ自体には意味がある。自分の投稿が誰かの人生を傷つけていないか。批判のつもりが攻撃になっていないか。
スマートフォンの画面の向こうには、必ず生身の人間がいる。



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