工業都市の影に隠れた住所の空白地帯
兵庫県尼崎市。阪神工業地帯の中核を担うこの街の南部には、地図を見ても説明のつかない不思議な現象が存在する。番地が10番から突然50番に飛ぶ。Googleマップで示された道が実際には存在しない。表札のない家屋が肩を寄せ合うように密集している──。
これは都市伝説ではなく、この街を歩いた人々が実際に体験する「住所の曖昧さ」である。
なぜ番地は飛んでいるのか
尼崎市南部を歩くと、住所表示の不連続性に誰もが戸惑う。「1丁目8番」の次が「1丁目25番」、その隣が「1丁目3番」といった具合だ。
この謎を解く鍵は、戦後の急速な工業化と人口流入にある。1950年代から60年代、尼崎南部は製鉄所や化学工場が次々と建設され、全国から労働者が集まった。当時、住宅需要に行政が追いつかず、工場の社宅や長屋が無計画に建てられた。
正式な区画整理を経ずに建物が増えたため、後から番地を割り振る際に矛盾が生じた。すでに建っている建物に番地を振り分けると、地理的な順序と数字が一致しなくなったのだ。さらに工場の拡張や移転で土地の用途が変わり、番地だけが残される「欠番」も生まれた。
地元の古老によれば、「昔は番地なんて誰も気にしなかった。○○工場の横、といえば通じた時代だった」という。
地図と現実のズレが生む迷宮
デジタル地図の時代になっても、尼崎南部では地図が役に立たない場所がある。スマートフォンの画面には道があるのに、目の前には工場の塀が立ちはだかる。そんな経験をした人は少なくない。
この現象の背景には、複雑な土地の歴史がある。かつて水路だった場所が埋め立てられ、工場の私道だった道が公道になり、あるいはその逆も起きた。地図データの更新が追いつかないのだ。
特に問題なのは、戦前の耕地整理による道と、戦後の工場用地開発による道が複雑に入り組んでいる点だ。古い地図には農道として記録されていた道が、実際には30年前に消滅していることもある。
配送業者の間では、「尼崎南部は地図を信じるな」が合言葉だという。ベテラン配達員は独自の手書き地図を持ち歩き、「この角を曲がったら工場の裏口から入る」といった”秘密のルート”を熟知している。
表札のない家が語る戦後史
最も不気味とされるのが、表札のない家屋の密集地帯である。錆びたトタン屋根、色褪せた木造の壁、しかし洗濯物は干してあり、明らかに人が住んでいる。
これらは「飯場(はんば)」と呼ばれた労働者向け簡易宿泊所の名残だ。高度経済成長期、日雇い労働者は身分を明かさず住めるこうした場所に流れ着いた。表札がないのは、流動的な住人にとって必要なかったからだ。
時代が変わっても建物は残り、今では高齢の単身者や外国人労働者が住む。行政も実態把握に苦労しており、住民票の住所と実際の居住地が一致しないケースも珍しくない。
ある福祉関係者は語る。「住所がはっきりしないことで、行政サービスを受けられない人がいる。これは現代の貧困問題でもある」
再開発が進まない理由
なぜ区画整理で解決しないのか。答えは複雑な権利関係にある。
工場用地と住宅地が混在し、土地の所有者が判然としない場所も多い。企業が倒産して所有権が移転を繰り返し、登記簿上の所有者と実際の使用者が異なるケースもある。境界線が曖昧なまま数十年が経ち、誰も真相を知らない土地さえ存在する。
再開発には全権利者の同意が必要だが、連絡が取れない所有者や、相続が未処理のまま放置された土地が障害となる。行政も予算と人手の問題で、優先順位を上げられない現実がある。
住所の曖昧さが生む現代的問題
この「住所の空白」は、現代社会でさまざまな問題を引き起こしている。
救急車が住所を頼りに到着しても、該当する建物を見つけられない。宅配便が届かず、インターネット通販も利用しづらい。住民票と実際の居住地が異なることで、選挙権の行使や行政サービスの受給に支障が出る。
一方で、この曖昧さが人々の「逃げ場」になっている側面もある。借金から逃れたい人、DVから身を隠したい人、過去を断ち切りたい人──住所が曖昧な街は、彼らを匿う機能を持ってきた。
都市伝説から見える日本の縮図
尼崎市南部の「住所が消えた街」は、高度経済成長の光と影を象徴している。急速な発展の代償として生まれた歪みが、そのまま残されているのだ。
この現象は尼崎だけの問題ではない。全国の工業都市、港湾地区、かつての炭鉱町など、似た状況を抱える場所は多い。人口減少と高齢化が進む今、こうした「曖昧な住所」を持つ地域はむしろ増えていくかもしれない。
地図に載らない道、存在しない番地、名前のない家。それは単なる行政の不備ではなく、激動の時代を生きた人々の記憶が刻まれた証でもある。
尼崎南部を訪れるなら、正確な地図を期待してはいけない。この街を知る最良の方法は、迷いながら歩き、住む人々に道を尋ねることだ。曖昧さの中にこそ、都市の真実が隠れている。




コメント