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宇梶剛士の伝説的過去|ブラックエンペラー総長から俳優への転身物語

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ヒロミも恐れた「とんでもなく有名だった人」の真実

優しい笑顔と落ち着いた物腰で多くのドラマや映画に出演する俳優・宇梶剛士。しかし、その穏やかな姿からは想像もできない壮絶な過去を持っている。

構成員2000人を束ねた日本最大級の暴走族「ブラックエンペラー」第7代目総長として君臨し、少年院での出会いをきっかけに人生を180度転換させた彼の人生は、まさに現代の伝説といえるだろう。

プロ野球選手を夢見た少年時代からの転落

1962年東京都生まれの宇梶剛士は、身長188センチという恵まれた体格を活かし、拓殖大学第一高等学校で野球部に所属していた。その実力は本物で、プロ球団のスカウトが何度も視察に訪れるほどだったという。甲子園を夢見る普通の高校球児だった彼の人生が暗転したのは、高校時代に起きたある事件がきっかけだった。

野球部内でのいじめやシゴキを学校側に告発したところ、逆に事実を隠蔽され、2ヶ月間グラウンドの端に監視付きで立たされるという理不尽な扱いを受けた。担任を含め、誰一人として声をかけてくれなかったこの経験が、宇梶の心に深い傷を残した。「大人は信用できない」という思いが彼を暴力へと駆り立て、やがて暴力事件を起こして少年鑑別所に入所することになる。

出所後、高校を中退した宇梶は北海道の叔父のもとで働くも更生できず、再び東京へ。行き場のない怒りと挫折感を抱えた18歳の青年は、やがて当時日本最大の暴走族組織と言われた「ブラックエンペラー」へと身を投じることになった。

伝説の総長誕生|ブラックエンペラー第7代目の軌跡

ブラックエンペラーに加入した宇梶は、その圧倒的な体格と喧嘩の強さで瞬く間に頭角を現した。通常であれば組織内で段階を踏んで地位を上げていくものだが、宇梶の場合は異例の早さで三多摩地区のヘッドに就任。さらに驚くべきことに、加入から1年も経たないうちに、単身で本部に乗り込み総長の座を要求するという前代未聞の行動に出た。

この大胆不敵な行動は当時の第6代目総長・蛯澤賢治によってなだめられたものの、宇梶の名は一夜にして東京中に知れ渡ることとなった。そして蛯澤総長が引退する際、満場一致で選ばれたのが17歳の宇梶剛士だった。

第7代目総長就任時の集会には、バイク600台、車100台で約1600人が集結。その後も勢力は拡大を続け、最終的には構成員2000人、傘下を含めると1万人規模にまで成長したとされている。まさに当時の関東における暴走族のトップに君臨していたのである。

数々の武勇伝が語り継がれているが、中でも有名なのは「1対1000人の戦い」だ。湘南を走行中に他グループと遭遇し、仲間が逃げ出す中、宇梶一人で20人以上を叩きのめしたという伝説は今も語り草となっている。

宇梶の喧嘩には独特のスタイルがあった。正面から挑んでくる相手には喧嘩の後に和解し、時には説教をして改心させた。しかし、卑怯な手段や闇討ちをしてくる相手には容赦がなかったという。当時を知る人物は「普段は優しいが、キレると鬼のように恐ろしかった」と証言している。

ヒロミが語る「雲の上の存在」だった宇梶剛士

元暴走族で現在はタレントとして活躍するヒロミは、若い頃「八王子スペクター」という暴走族に所属していた。当時からブラックエンペラーの宇梶剛士の存在を知っており、その評判は界隈全体に轟いていたという。

ヒロミは番組などで宇梶について語る際、必ずこう表現する。「僕らがガキだった頃、とんでもなく有名だった人」「雲の上の存在で、怖すぎて近づけなかった」と。日本最大の暴走族組織のトップという立場は、同じ界隈にいた者たちにとって、まさに伝説的な存在だったのだ。

興味深いのは、芸能界で再会した現在でも、ヒロミが宇梶と共演する際に「思わず舎弟口調になってしまう」というエピソードである。これは定番のネタとして扱われているが、当時の迫力を知るヒロミにとって、それは単なるネタでは済まされない実感を伴ったものなのかもしれない。

また、立川市出身の作家・ゲッツ板谷も著書の中で宇梶を「伝説的存在だった」と記述しており、当時の多摩地区における宇梶の影響力がいかに大きかったかを物語っている。

少年院で出会ったチャップリンの自伝が人生を変えた

暴走族同士の抗争で再び逮捕された宇梶は、家庭裁判所を経て茨城県の少年院に収容された。18歳の時だった。閉ざされた空間で、これからどう生きていけばいいのか分からず悶々とする日々。そんな時、母親が差し入れてくれた一冊の本が、宇梶の人生を大きく変えることになる。

それが喜劇王チャールズ・チャップリンの自伝だった。

宇梶はもともとチャップリンが大好きで、出演映画のほとんどを見ていた。しかし自伝を読んで初めて、華やかなスターの裏側にある孤独で辛い幼少期を知った。困窮の中でも夢を諦めず、人々に笑いと感動を届け続けたチャップリンの生き方に、宇梶の心は激しく揺さぶられた。

「大きな苦しみや悲しみを抱えながらも、人々に笑いや感動を与える仕事をしてきたチャップリンの生き方に感動した。それまで抱えていた悔しさや怒りが、揉み解されたように感じた」と後に宇梶は語っている。

不良たちが纏う「なめられてたまるか」「俺は負けない」という心の鎧を、自然に脱ぐことができた瞬間だった。「もう、不良はなしだ」と決意した宇梶は、人に”何か”を訴えられる仕事がしたいと考え、俳優を目指すことを決めた。

少年院の中で高校復学のための勉強に励み、出所後は明治大学付属中野高等学校定時制に編入。定時制高校では近藤真彦、野村義男、野々村真らとクラスメートになったという。

師匠との出会いと俳優への道

少年院を出た宇梶は、母親の紹介で歌手の錦野旦の事務所でカバン持ちを始めた。演劇学校にも通い、「体がいくつあっても足りないような日々」を送っていた。

錦野旦からは芸能界の基本を学んだ。「この世界は資格がない世界だ。免許が無い。保証がない。だから約束を守らなければいけない」「他人の悪口は言うな。言った悪口は倍になって返ってくる」といった教えは、今も宇梶の心に刻まれている。

そして運命的な出会いが訪れる。錦野の事務所の使いで訪れた制作会社で、偶然菅原文太と出会ったのだ。「お前、歌い手か?」と聞かれた宇梶が「俳優になりたいが、なり方が分からないので見習いをしています」と答えると、菅原は錦野の事務所に電話し「おたくのデカいの、もらっていいか」と言ったという。

18歳から菅原文太に付き人として仕え、宇梶は彼を「オヤジ」と呼んで慕った。その後、美輪明宏や渡辺えりといった大物との出会いを経て、俳優としての道を歩み始める。

しかし、俳優の仕事だけで食べていけるようになったのは33歳の頃。それまでは工事現場でアルバイトをしながら下積み生活を続けた。1997年放送のドラマ「ひとつ屋根の下2」でブレイクし、以降は数々のドラマ、映画、舞台で活躍する名脇役として知られるようになった。

過去と向き合い、未来へ繋ぐ生き方

宇梶剛士は自身の過去について、長らく語ることを避けていた。「過去をやり直すことはできない。俳優をやる上では邪魔かもしれない」という思いがあったからだ。しかし2003年に自伝的エッセイ集「不良品」を出版し、自らの生い立ちや暴走族時代、そして俳優として立つまでの道のりを赤裸々に綴った。

著書の中で宇梶は「生まれつきの不良なんていない。みんな挫折などによって、気持ちがねじれた結果、不良になってしまう」と語っている。彼自身のねじれた気持ちへの抵抗が、喧嘩やバイクで走り回ることだった。「僕の中で一番ダサい歴史」と表現する一方で、その経験があったからこそ今の自分があると受け入れている。

現在は俳優業に加えて、全国各地で講演活動も行っている。人権問題や青少年問題をテーマに、自身の体験を通じて「人生は人の数だけ主役がある。他人を羨んだり憎んだりすることなく、自分の人生の主役を張って生きていこう」というメッセージを届けている。

また、アイヌ民族の血を引く母・宇梶静江の影響もあり、アイヌ文化の継承活動にも力を入れている。2020年には北海道白老町の「ウポポイ」PRアンバサダーに就任し、アイヌ文化紹介VTRへの出演やドキュメンタリー映画のナレーションなども務めている。

温厚な人柄と意外な一面

現在の宇梶剛士は、穏やかで紳士的な性格で知られている。暴走族時代から人望が厚く、大工やとび職に転身した元仲間たちが、彼の俳優業のブレイクを喜んで新築一戸建ての家を建ててくれたというエピソードもある。

意外なことに、体格も良く喧嘩も強かった宇梶は昆虫、特にゴキブリが大の苦手だという。家中にゴキブリ用の殺虫剤を置いているほどだ。また、自他ともに認める甘党で、毎日何か甘いものを食べないと落ち着かないらしい。特にチョコレートとあんこが大好物だ。

「過去の自分も、今の自分もすべて自分自身。今を積み重ねることでしか、未来に参加することはできない」という信念のもと、宇梶は自身の過去をオープンに語りながら、俳優として、そして一人の人間として成長し続けている。

暴走族の総長から俳優へ。母が差し入れた一冊の本が人生を変えた宇梶剛士の物語は、どんな過去を持っていても、人は変われるということを教えてくれる。そして、過去から目を背けるのではなく、それを受け入れて前に進むことの大切さを、彼の生き方は示している。

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