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赤星憲広が語る亜細亜大学野球部の地獄 | 何億積まれても戻りたくない過酷な4年間

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野球
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阪神タイガースの名センターとして活躍し、盗塁王に5度輝いた赤星憲広。彼の俊足と堅守を支えたのは、亜細亜大学野球部での4年間だった。しかし、その日々を赤星は「地獄」と表現し、「何億円積まれても大学時代には戻りたくない」と断言する。いったい亜細亜大学野球部で何があったのか。プロ野球選手を数多く輩出する名門の裏側に迫る。

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亜細亜大学入部までの経緯

赤星は愛知県立大府高校出身。公立高校でありながら2年連続で甲子園に出場し、高校野球雑誌にプロ注目選手として名前が載るほどの実力者だった。しかし、体格の小ささを理由にスカウトからは大学での経験を積むよう勧められ、本人にもプロでやっていける自信はなかった。

本命だった中京大学の小論文試験で失敗し不合格となった赤星に、亜細亜大学から声がかかる。教員免許を取得できることも魅力だったため、進学を決意。しかし、この選択が彼にとって想像を絶する過酷な4年間の始まりとなった。

地獄の入部初日

一般入試組として入部した赤星を待っていたのは、理不尽な洗礼だった。指定された日時に練習場へ到着したにもかかわらず、先輩から「お前ら今頃ノコノコ来やがって!」と初日から叱責される。

入部3日目、怪我人の穴埋めで代走出場した試合で一塁牽制アウト。夜の寮で先輩から「もう試合に出るな」と説教された。翌日の試合では盗塁失敗。またしても先輩から激しく叱られた。野球のプレー以前に、この理不尽な環境に赤星は困惑した。

想像を絶する練習メニュー

亜細亜大学野球部の練習は、他の大学野球部とは比較にならないほど過酷だった。

基本的な練習スケジュール:

  • 朝8時半からグラウンドの草むしり
  • 1500メートル走を10本(これが準備運動)
  • 9時から本格的な練習開始
  • 授業のない日は20時まで練習継続
  • 休日は数ヶ月に一度あるかないか程度

赤星は当時を振り返り、「グラウンドでの嘔吐は日常茶飯事」という環境だったと語る。同じく亜細亜大OBの井端弘和も「大学の野球部で一番厳しいのは間違いない。つまり日本一厳しい」と評している。

寮生活の過酷さ

練習以上に過酷だったのが寮生活だという。

厳格な上下関係:

  • 1、2年生はジーパン禁止
  • ジャンパーは腰上まで、尻が隠れるものは禁止
  • 電車で座ることも禁止
  • 同部屋の先輩が戻るまで後輩は全員正座で待機
  • 1年生は上級生の身の回りのことをすべて担当
  • 規律を破った者は部員一人一人に謝罪して回る

赤星は著書で「練習より寮生活の厳しさで円形脱毛症になったり、脱走する同級生もかなりいた」と明かしている。実際、赤星の学年では1年時に半数近くが集団脱走を決行し、そのまま戻ってこなかったというエピソードがある。

なぜ辞めなかったのか

これほど過酷な環境で、なぜ赤星は4年間やり遂げられたのか。

赤星自身が語る理由は明確だった。「大府高校から亜細亜大学へ進学するルートを潰したくなかった」。公立高校出身として初めて東都大学野球連盟所属の野球部に入った赤星には、後輩のために道を切り開かなければならないという使命感があった。

また、「なんでこんなところに来てしまったのか」という思いと「やめられない」という思いの間で揺れながらも、「絶対やめられないわけだし、これだけ苦しいことをどうせやるんだったら、とことん上を目指してやらないと意味がない」と考えたという。

「やりがい」という名の特殊訓練

亜細亜大学には「やりがい」と呼ばれる独特の練習があった。これはパートナーの体重を利用した訓練で、体の小さい赤星は軽量だったため、パートナーとして一番人気があったという。この皮肉めいたエピソードからも、当時の厳しさが伝わってくる。

プロへの道と4年間の成果

こうした過酷な環境を耐え抜いた赤星は、大学4年生の秋に明治神宮野球大会で優勝を経験。東都大学1部リーグでは通算78試合出場、打率.279、通算45盗塁(リーグ歴代3位)という成績を残した。

大学卒業後はJR東日本に就職。2000年のドラフト会議で阪神タイガースから指名を受け、プロ入りを果たす。そしてプロでは盗塁王5度、ゴールデングラブ賞6度という輝かしい実績を残した。

赤星が語る亜細亜大学への複雑な思い

引退後、赤星は亜細亜大学での4年間について、相反する感情を吐露している。

プラスの評価:

「プロのレベルまで上りつめられたのは、技術的にも、精神的にも、亜細亜に行ったおかげだろう」

「いろいろなものを犠牲にしてまでも野球に打ち込んで、あの4年の間、地獄のような生活をしてきたからこそ、こうやって今がんばっていられるのは間違いない」

マイナスの評価:

「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」

「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」

「何億とお金を積まれても無理」

「もう思い出したくもない」

「もし知っていたら進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」

この矛盾した言葉の中に、赤星の本音が見える。確かにプロとして成功する礎となったが、二度と経験したくないほど辛い日々だったのだ。

他のOBたちも語る厳しさ

亜細亜大学野球部の厳しさは、赤星だけが語っているわけではない。パンチ佐藤などの他のOBたちも「間違いなく日本一厳しい野球部」と証言している。

高津臣吾は「100人ぐらい部員がいて、本当に練習させてもらえるのは30人とか40人。1日に何百球と投げるので、その時は本当にしんどかった」と当時を振り返る。

また、阿波野秀幸も「厳しい練習の上に雑用が多く逃げ出したくなる理不尽な事も多かった」と明かしている。

入学辞退・退部した選手たち

亜細亜大学野球部の厳しさを物語るエピソードとして、有望選手の入学辞退や退部がある。

大阪桐蔭の四番打者が2年連続で入学即退部したり、後に巨人でプレーする吉川尚輝は高校3年の2月に入寮して練習に参加したものの、すぐに入学を取り消している。

また、ロッテの河村説人も入学後すぐに肩を壊し前期終了と同時に中退、翌年別の大学に入学し直したという。

亜細亜大学が生み出すプロ野球選手

これほどまでに過酷な環境でありながら、亜細亜大学は数多くのプロ野球選手を輩出している。井端弘和、高津臣吾、木佐貫洋、山崎康晃など、名だたる選手たちがこの「地獄」を乗り越えてプロの世界で活躍した。

赤星は「毎年のように亜細亜出身のプロ野球選手が出てくるのは、先輩たちから受け継いだ伝統があるから」と語っている。過酷な環境を乗り越えたという事実が、選手たちに特別な自信と精神力を与えているのかもしれない。

地獄が生んだ名選手

赤星憲広の亜細亜大学野球部での4年間は、まさに「地獄」そのものだった。1500メートル走10本から始まる過酷な練習、理不尽な上下関係、休みのない日々。「何億円積まれても戻りたくない」という言葉に、その辛さが凝縮されている。

しかし同時に、この地獄のような環境が赤星をプロ野球選手へと成長させたことも事実だ。技術面でも精神面でも、亜細亜大学での経験がなければ今の赤星はなかったと本人が認めている。

現代の価値観からすれば、このような環境は決して推奨されるものではない。しかし、亜細亜大学野球部が日本球界に与えた影響は計り知れない。赤星憲広という一人の選手の証言を通じて、我々は日本野球の光と影、成功の代償というものを考えさせられるのである。

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