歌とダンスに魅せられた幼少期
1984年生まれの島袋寛子は、まだ言葉もうまく話せない頃から、歌ったり踊ったりすることが大好きな子どもでした。自作のメロディや意味のわからないデタラメな言葉でずっと歌っていた姿を、周りの大人たちが見守っていました。そんな娘の才能に気づいた家族が、彼女に提案したのが沖縄アクターズスクールでした。
3歳の終わり頃、実際にスクールを見学した島袋は、「ここに絶対通いたい!」と母親に強く訴えました。母親は最初、幼い娘の突然の申し出に驚きましたが、その真剣な眼差しと強い意志に心を動かされ、娘の夢を応援することを決意します。
母との約束「10年やって芽が出なかったら」
アクターズスクールに入る際、母親と島袋は約束を交わしました。それは、スクールでの活動に対する覚悟を示すものでした。3歳という幼い年齢にもかかわらず、島袋は自分で考えて口に出して伝える、意思表示のハッキリした子どもだったといいます。
沖縄アクターズスクールは、安室奈美恵やMAXなど、数多くの有名アーティストを輩出してきた名門スクールです。ここで島袋は、本格的な歌とダンスのレッスンに励みます。持ち前のリズム感と表現力、そして何よりも歌うことへの純粋な喜びが、彼女の才能を急速に開花させていきました。
SPEEDメンバーに選ばれた理由
「BRAND-NEW KIDS」からの出発
スクールでレッスンに励む日々の中、島袋の運命を大きく変える出来事が訪れます。もともとは7人から9人ほどの子どもたちでイベントに出るチーム「BRAND-NEW KIDS」があり、島袋もその一員でした。
1995年春、そのチームの中から歌唱力を武器とするハイトーンボイスの島袋寛子と曲の低音を支える今井絵理子の2人でのデビュー予定がありました。しかし、ビジュアルの完成度の高い上原多香子と最年長でダンスに定評のあった新垣仁絵が加わり、それぞれ1学年ずつ異なる4人体制となりました。これが、後に日本の音楽シーンを席巻することになる女性ダンス&ボーカルグループ「SPEED」の誕生でした。
なぜ小学生でメンバーに?
島袋がSPEEDのメンバーに選ばれた最大の理由は、その圧倒的な歌唱力でした。マイクを初めて持たせてもらったときの音が出る喜びを、今でも覚えているという島袋。幼い頃から培ってきた歌への情熱と、スクールで磨いた技術が評価されたのです。
1995年に初めてテレビ出演した際、島袋は小学5年生の11歳でした。1996年8月5日にシングル「Body & Soul」でメジャーデビューした時は12歳。グループの中では最年少メンバーでありながら、今井絵理子と共にメインボーカルを担当しました。
デビュー当時の平均年齢は13.5歳で、メンバー全員が小・中学生であったことが大きな注目を集めました。デビュー曲「Body & Soul」は、60万枚を超えるセールスを記録し、一躍トップアイドルグループの仲間入りを果たします。
小学生で東京へ:家族の支えと覚悟
11歳の時、グループで東京に行く話が持ち上がりました。小学生の娘が単身東京で活動するという大きな決断に対して、母親は反対することもなく、娘の意志を尊重しました。後に母親が語ったところによれば、島袋は自分が本当にやりたいことや、自分が覚悟を決めたことは、誰にも相談せずに自分で決めて、小さい頃からお願いはするけどもう決めているタイプだったといいます。
東京での活動開始に際して、島袋は一人ではありませんでした。メンバー4人で一緒に東京に行ったことで、一人じゃない安心感がありました。ただし、よく一緒にいる仲間ではあったものの、ものすごくベッタリという感じではなく、まだお互いの様子を探り合っていた頃だったといいます。
SPEEDメンバーとの関係性
年齢差が生んだ二つのチーム
デビュー時のSPEEDメンバーは、それぞれ1学年ずつ異なっていました。島袋寛子(小5/11歳)、今井絵理子(小6/12歳)、上原多香子(中1/12歳)、新垣仁絵(中2/14歳)。小中学生にとって1、2歳の差は大きく、共同生活では低学年の「妹チーム」(島袋・今井)と高学年の「お姉ちゃんチーム」(上原・新垣)の2つのグループに自然と分かれていました。
二つのチーム間ではケンカもあり、特に印象的だったのが「ラジカセ事件」です。練習用の大きなラジカセをどちらの部屋に置くかで揉め、妹チームが拒否したところ、お姉ちゃんチームに激怒され、結果的に1週間以上も妹チームは音楽を聴けなくなったというエピソードがあります。
上原多香子は、新垣仁絵に対して「一番仲良くできそうだな」と思った一方、島袋と今井については「すごい元気」と評し、性格の違いも際立っていました。島袋も上原の第一印象を「おとなしくて静かな女の子」と語っており、「妹チーム=元気」と「お姉ちゃんチーム=おとなしい」という性格面の違いが明確でした。
それぞれの役割と個性
一番年上の新垣仁絵が、何かあると話をまとめるリーダー的存在でした。新垣はダンスも上手く、絵を描いたりファッションセンス、芸術的センスも高かったため、その部分をメンバーも尊重していたといいます。
上原多香子と今井絵理子は、実際の家庭でも末っ子だったこともあり、明るくてバーンとした性格。一方、島袋と新垣は実際の家庭でも長女で、トーンが似ていたと島袋は振り返っています。
デビューから解散まで:激動の3年8ヶ月
1996年8月のデビューから2000年3月の解散まで、SPEEDの活動期間は約3年8ヶ月という短いものでした。しかし、この短期間にシングル11枚、アルバム6枚をリリースし、トータルセールスは約3,000万枚、386億円にものぼりました。
校長の牧野正幸が「高校進学は無意味です」と述べたように、沖縄アクターズスクールは従来の教育観とは異なる価値観を持っていました。義務教育を超えた活動を選択する勇気を持ったSPEEDは、当時の社会に大きな衝撃を与えました。
解散の真実
島袋は後に「決して解散したいというわけではなかった」「メンバーのことも大好きだった」と語っています。しかし、中学2年からソロ活動を並行するようになり、このままでいいのかと自分の人生を考えるようになったといいます。
解散を強く主張したのは島袋だったとされ、「歌うのが大好きだったのに、それもイヤだと思えてきて。声も出なくなってしまって、ちょっと考えたい、立ち止まりたい」と思うようになりました。ドーム公演で満員になっても、自分のベストなパフォーマンスで来てくれた人たちを楽しませることしか考えていなかったという島袋にとって、3年以上の全力疾走は大きな負担だったのかもしれません。
再結成で深まった絆
2008年、SPEEDは8年ぶりに本格的な再結成を果たしました。解散後、それぞれが別々の道を歩み、成長したメンバーたちは、再び集まることで新たな関係性を築きます。
今井絵理子は「第一次SPEEDは、4=SPEEDって感じだったけど、今は1+1+1+1=SPEEDという感じがする。自立していて、お互いの意見を尊重し合って、そこが大きく違う」と表現しています。
特に上原多香子の変化は大きく、島袋が「再結成後はライブについて彼女の意見で気づかされることも多く、今は自分があるなって思う」と語るように、他の3人から見直されるほどでした。
2022年の「大復活祭」では、島袋のステージに今井絵理子と上原多香子がゲスト出演し、約11年ぶりにステージでパフォーマンスを披露しました。その際、袖でISSAがメンバーのパフォーマンスを見守っていた姿に、島袋は「アクターズスクールの愛を感じた」と語っています。
「始まりの場所」への想い
島袋は「私にとって沖縄アクターズスクールは始まりの場所」と語り、今までとこれからへの思いを抱いて、すてきな時間を過ごせたらと述べています。
3歳で夢を抱き、小学生でその夢を実現させた島袋寛子。SPEEDとしての活動を通じて、メンバーとの絆を深め、時には衝突し、時には支え合いながら成長してきました。現在も歌手として活動を続ける彼女の原点には、常に沖縄アクターズスクールでの経験と、SPEEDメンバーとの かけがえのない思い出があります。
島袋寛子の物語は、幼い頃からの純粋な夢と、それを支えた家族、共に歩んだ仲間たち、そして自分自身の覚悟が織りなす、まさに奇跡のストーリーなのです。



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