PR
スポンサーリンク

V6坂本昌行の波乱万丈な下積み時代〜ジャニーズ入所から24歳でのデビューまで〜

スポンサーリンク
エンタメ
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

芸能界への扉を開いた一通の履歴書

1988年、高校生だった坂本昌行は芸能界入りを決意し、様々な芸能事務所や劇団に自ら履歴書を書いて送りました。メンズノンノのモデルオーディションにも応募しましたが、不合格の連続でした。

しかし、ジャニーズ事務所にも履歴書を送り、半年後に行われたオーディションを受け、1988年にジャニーズ事務所に入所します。当時16歳。同期には、のちにTOKIOのメンバーとなる国分太一がいました。

実は坂本のジャニーズ入所には、意外な背景がありました。入学した昭和第一高校の校風が坂本には合わなかったため、憧れの場所であった芸能界に入ることができれば、高校を辞めたいと両親に伝えていたのです。つまり、「高校を辞める理由作り」として芸能界を目指したという、型破りなスタートでした。

学生時代の坂本は、どちらかというとやんちゃな方で、好きな歌手は横浜銀蝿、制服はボンタン、バッグはセカンドバッグ、髪型はリーゼントという、まさに「今日から俺は!」のような風貌だったといいます。光GENJIの大ファンだった少年が、いつしかツッパリスタイルを確立していったのです。

長く苦しいジュニア時代の始まり

ジャニーズ事務所入所後、坂本は「平家派」というジュニアユニットに所属します。メンバーには長野博、井ノ原快彦、国分太一、城島茂らがおり、のちに反町隆史として大ブレイクする野口隆史も在籍していました。

Jr.時代の坂本は、10代のJr.なのに、車でレッスンに来て、レッスン場にコーヒーと新聞を持ってきていたといいます。同期の松岡昌宏も「坂本さんがイジられキャラになったのはいつからですかね。我々がJr.の時期は一番怖い人だった」と振り返るほど、当時の坂本は異色の存在でした。

しかし、華やかな活動とは裏腹に、坂本の心には焦りがありました。1995年11月1日、V6のメンバーとして「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビュー。デビュー当時24歳3か月で、長らくジャニーズのデビュー最年長記録となったのですが、それまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

挫折と決断〜旅行代理店への就職〜

同世代がデビューしていく中、坂本だけが取り残されていきます。光GENJIのバックで踊り、様々な舞台に出演しても、自分のデビューは見えてきませんでした。

当時、10代でデビューしていないと未来はないという風潮がジャニーズ事務所内であって悶々としていたところに「ジャニーズ以外の世界を見ても良いんじゃない?」と旅行会社の先輩から誘われたことで、坂本は大きな決断を下します。

V6のメンバーとしてデビューするまでは長い下積みを要しており、ジャニーズ事務所を一度辞めて、1年弱の間、旅行会社に勤務したのです。

旅行代理店に勤務しツアーコンダクターの仕事をしていて、当時流行していた「ねるとんパーティー」のバスの中で進行をやったりしていました。かつてスポットライトを浴びていた青年が、一般のサラリーマンとして、バスの中で婚活パーティーの進行を務める日々。その心境は複雑なものだったでしょう。

坂本本人は「いやそれが、自分の目指してきたものが、どんどん膨らんでいくんですよ」と振り返っています。芸能界から離れたことで、かえって自分が本当にやりたいことが明確になっていったのです。

運命の再会〜KinKi Kidsとの電車での邂逅〜

転機は突然訪れました。

電車で仕事帰りのKinKi Kidsに会った時に「今、坂本くんは何してんの?」と聞かれ悔しくて答えられなかったのです。坂本はむしろ、一度去った芸能界でもう一度輝きたいという想いがふつふつと湧いてきたといいます。

若手の後輩たちは営業で千葉に行った帰りだと話していました。一方、自分はスーツを着て旅行会社の営業から帰る途中。その対比が、坂本の心に深く突き刺さりました。「バイトの面接なんだ」みたいにごまかした自分も許せなくて、やっぱりもんもんとしてテレビ付けるとみんな頑張ってるし、どうしても戻りたい!と思ったのです。

同期の国分太一に「ジャニーさんに、俺が戻りたいって言ってくれないか」と頼み、国分を通じて芸能界に戻りたいとの意思をジャニー喜多川へ伝えてもらい、復帰しました。この時、同期の絆が坂本の運命を変えたのです。

再スタートと長い試練の日々

ジャニーズ事務所に復帰した坂本を待っていたのは、さらなる試練でした。

復帰後、少年隊の東山紀之の付き人を経験します。一度ジャニーズ事務所を辞めた坂本が復帰した際、坂本のダンス力を認めていた東山が付き人と自身のバックダンサーに指名。付き人時代は、東山のポケットマネーで坂本に給料を出していたというエピソードからは、東山の懐の深さと坂本への期待が伝わってきます。

また事務所復帰後は1年ほど仕事はありませんでした。20代前半という、アイドルとしては決して若くない年齢で、仕事のない日々を過ごす。それは想像を絶する不安と焦りだったはずです。

付き人生活終了目前にまたしても事務所を辞めようとした坂本に、東山が「がんばってれば、必ず人は見てくれてる」と激励。そこでやっと仕事に対する覚悟を決めたといいます。東山の言葉が、坂本の人生を再び軌道修正したのです。

そしてV6デビューへ〜24歳3か月の挑戦〜

1995年、ついに転機が訪れます。

ジャニーさんから「今度バレーボールのWカップのサポーターとしてV6というグループを作る。坂本くんバレーボールできるよね?教えてあげてほしい。」と伝えられ、元バレーボール部だった坂本はコーチのつもりで現場に向かったそうです。

しかし、それは坂本自身がメンバーとしてデビューする瞬間でもありました。岡田准一、井ノ原快彦、三宅健、長野博、森田剛という個性豊かなメンバーとともに、V6が結成されたのです。

1995年11月1日、V6のメンバーとして、「MUSIC FOR THE PEOPLE」でCDデビュー。デビュー当時24歳3か月で、長らくジャニーズのデビュー最年長記録となりました。

入所から実質7年(途中退所期間を含めると約5年半)。他のジャニーズタレントと比較しても、異例の長さでした。しかし、その下積み時代があったからこそ、坂本昌行というアーティストの深みが生まれたのかもしれません。

まとめ〜挫折が生んだ真のリーダーシップ〜

坂本昌行のジャニーズ入所からデビューまでの道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。高校を辞めるために入所し、長いジュニア時代を経験し、一度は挫折して旅行会社で働き、それでもスポットライトへの情熱を捨てきれず再び戻ってきた。

この波乱万丈な経験が、V6のリーダーとしての坂本を形作りました。挫折を知っているからこそ、メンバーの気持ちに寄り添うことができる。一般社会を経験しているからこそ、エンターテインメントの価値を深く理解している。

坂本は「自分を止めていたものにヒビが入って、いままでやってきたものがよく見えるようになりました。俺はやっぱりこれしかないんだって気づいたんです」と語っています。

遠回りに見えた道のりが、実は坂本昌行という唯一無二のエンターテイナーを生み出すために必要な時間だったのです。24歳でのデビューという「最年長記録」は、彼にとって恥ずべき記録ではなく、諦めなかった者だけが手にできる誇りの証だったのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました