はじめに:「初恋の味」を生み出した男
誰もが知る国民的飲料「カルピス」。その甘酸っぱい味わいは、まさに「初恋の味」として100年以上にわたり日本人の心に刻まれてきました。しかし、この名飲料を生み出したカルピス創業者・三島海雲の波瀾万丈な人生を知る人は多くありません。
寺の息子として生まれ、英語教師から中国大陸での商人へと転身し、モンゴル高原での運命的な出会いを経て、無一文からの再起を果たした男。そして、革新的なマーケティング戦略で日本の飲料業界に革命を起こした「昭和のマーケティング・モンスター」——。その生涯は、現代のビジネスパーソンにも多くの示唆を与えてくれます。
寺の息子として生まれた仏教の精神
1878年(明治11年)7月2日、三島海雲は大阪府豊島郡下萱野村(現在の箕面市)の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の息子として誕生しました。わずか13歳で得度(出家の儀式)を済ませた海雲は、仏門に入る道が定められているかのようでした。
しかし、海雲の人生は寺を継ぐという単純な道筋をたどりません。1893年、15歳で京都西本願寺文学寮(現在の龍谷大学)に入学。ここで生涯の恩師となる杉村楚人冠(のちのジャーナリスト、随筆家)に出会います。仏教哲学を学びながらも、海雲の心には「国利民福」——国の利益と人々の幸福を追求する——という志が芽生えていきました。
卒業後、海雲は山口の開導教校で英語教師として2年間勤務します。しかし、若き日の彼の心は、寺でも教壇でもなく、はるか大陸へと向かっていたのです。仏教で学んだ「私欲を離れ、根本より生ずる行動」という教えが、後のビジネス哲学の根幹となっていきます。
中国大陸での商人時代:雑貨から軍馬取引へ
1902年、24歳の三島海雲は人生の大きな転機を迎えます。仏教大学3年に編入したものの、大学から中国行きを勧められ、当時の若者たちが憧れた中国大陸へと渡航したのです。日露戦争前夜の緊張感漂う時代、海雲は北京の東文学社で日本語教師となりました。
しかし、教師の給与だけでは満足できなかった海雲は、1903年、東文学社で出会った友人・土倉五郎と共に雑貨貿易商「日華洋行」を設立します。馬車を引いて大陸各地を回り、日本の雑貨を販売する行商からスタートした二人は、次第に事業を拡大していきます。
当時の中国では、日露戦争や辛亥革命前後の混乱期にあり、軍事需要が高まっていました。海雲たちは時代の波に乗り、日本製の繊維製品や生活用品の取引から、やがて軍馬や物資の買い付けにも関わるようになったと言われています。荒々しくも活気に満ちた大陸での商売は、後の事業家としての胆力を養う修行の場となりました。
モンゴルでの運命の出会い:酸乳との邂逅
1908年、30歳の海雲は内モンゴル東部のクシクトン旗(現在の赤城市にある標高1,200m以上の高原地帯)を訪れます。目的は緬羊(めんよう)の飼育・改良のためでしたが、この旅が海雲の人生を、そして日本の食文化を大きく変えることになります。
長旅で体調を崩していた海雲に、現地の遊牧民が一杯の白い飲み物を差し出しました。それが「酸乳(さんにゅう)」——発酵させた乳製品でした。「白く濁った液体で、独特の酸味があり、最初は戸惑った」と海雲は後に語っています。しかし、この不思議な飲み物を飲み続けるうちに、みるみる体調が回復していったのです。
遊牧民たちは厳しい自然環境の中で、乳製品を主食として健康な生活を送っていました。この光景に深い感銘を受けた海雲は、「この素晴らしい食品を日本に持ち帰り、国民の健康に役立てたい」という夢を抱くようになります。モンゴルでの経験は、まさに海雲の「国利民福」の精神を具現化する原点となったのです。
無一文からの再挑戦:失敗の連続と不屈の精神
1915年(大正4年)、37歳で帰国した海雲は、モンゴルで学んだ乳製品の事業化に取り組みます。しかし、その道のりは想像以上に険しいものでした。
1917年、海雲はカルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立。発酵クリーム「醍醐味」、脱脂乳に乳酸菌を加えた「醍醐素」、生きた乳酸菌入りの「ラクトーキャラメル」などを次々と開発しましたが、いずれも商業的には失敗に終わります。
資金繰りに窮し、文字通り無一文の状態に陥ったこともありました。しかし、ここで海雲の人柄が力を発揮します。仏教精神に基づく誠実な人格と「国利民福」への純粋な志に共感した財界人や友人たちが、次々と援助の手を差し伸べたのです。
海雲は決して諦めませんでした。失敗から学び、試行錯誤を重ねながら、理想の製品を追い求め続けました。そして1919年(大正8年)7月7日、七夕の日——ついに世界初の乳酸菌飲料の大量生産に成功し、「カルピス」として発売したのです。この時、海雲は41歳。長い苦闘の末の栄光でした。
昭和のマーケティング・モンスター:革新的な販売戦略
カルピスの成功は、製品の品質だけではありませんでした。三島海雲は、当時としては革新的なマーケティング戦略を次々と展開し、「昭和のマーケティング・モンスター」と呼ばれるほどの手腕を発揮しました。
ネーミングの天才性
「カルピス」という商品名は、カルシウムの「カル」とサンスクリット語で仏教の五味(熟酥)を意味する「サルピス」の「ピス」を組み合わせたものです。栄養と仏教精神を融合させた、海雲らしい命名でした。
「初恋の味」という革命的キャッチコピー
1920年、文学寮時代の後輩である駒木卓爾から提案された「初恋の味」というキャッチフレーズは、当時としては衝撃的でした。”初恋”という言葉さえはばかられる時代、海雲は一度は「とんでもない」と断りました。しかし、カルピスの甘酸っぱい味わいを表現する言葉として、これ以上のものはないと気づき、採用を決断します。
この大胆な決断が、カルピスを単なる飲料から、感情と記憶に結びついた「特別な存在」へと昇華させました。
体験型マーケティングの先駆け
1923年9月1日、関東大震災が発生。カルピス社の被害は軽微でしたが、海雲は即座に「慰問隊」を結成し、社員全員で冷たいカルピスを被災者に無料配布しました。飲み水にも困っていた10万人以上の被災者に届けられたカルピスは、新聞で大きく取り上げられ、企業の社会的責任を示すと同時に、ブランド認知度を飛躍的に高めました。
イベントマーケティングの創造
1920年には動物愛護会とタイアップした伝書鳩レース、1926年には日比谷公園での囲碁大会を開催。今で言う「体験型マーケティング」や「イベントマーケティング」を、大正時代にすでに実践していたのです。
ビジュアルブランディング
黒人マークの水玉パッケージ(1990年まで使用)は、国際コンペで募集されたもので、天の川や銀河の流星をイメージしています。七夕に発売されたカルピスに、夜空のロマンを重ね合わせた見事なブランディングでした。
販路戦略の妙
海雲は「いくら製品が良くても販売ルートの強弱が製品の明暗を分ける」と考え、国分商店(現・国分グループ本社)など関東・関西の大手食品問屋と提携し、全国的な販売網を構築しました。
これらの戦略は、製品認知から購買、そしてロイヤルティ形成まで、現代マーケティングの基本を100年前にすでに実践していたことを示しています。
「国利民福」の実践:全財産を社会へ
成功を収めた海雲でしたが、その精神の根底には常に仏教哲学がありました。「私が今日あるのは先達、友人、知己、国民大衆の方々のカルピスに対する惜しみない声援によるもの。得られた財物は一人三島海雲のものではない。あげて社会にお返しすべきだ」——これが海雲の信念でした。
1962年(昭和37年)、84歳の海雲は全私財を投じて「三島海雲記念財団」を設立します。「私欲を忘れて公益に資する大乗精神の普及」を目的とし、「広野に播かれた一粒の麦になりたい」と語った海雲の姿勢は、現代の社会起業家の先駆けとも言えるでしょう。
また、「カルピスひなまつりプレゼント」として、全国の幼稚園・保育園の園児たちにカルピスを配布する取り組みを始めたのも海雲でした。これまでに1億人以上の子どもたちが、ひなまつりにカルピスで乾杯してきました。
1974年12月28日、三島海雲は96歳でこの世を去りました。しかし彼が残した「カルピス」と「国利民福」の精神は、今なお日本社会に生き続けています。
現代に生きる三島海雲の教え
三島海雲の生涯から、私たちは何を学べるでしょうか。
失敗を恐れない挑戦精神——無一文から何度も立ち上がった不屈の姿勢 社会への貢献を第一とする経営哲学——「国利民福」の実践 時代を先取りするマーケティングセンス——感情に訴えかけるブランディング 人間関係の構築——誠実さが生み出した支援者のネットワーク 文化と商品の融合——仏教精神と近代ビジネスの調和
カルピス創業から100年以上が経った今、三島海雲の物語は、単なる成功譚を超えて、「真の企業の在り方」を問いかけています。利益追求だけでなく、社会への貢献を軸とした経営——それは決して古臭い理想論ではなく、持続可能な社会を目指す現代にこそ必要な視点なのです。
おわりに
寺の息子から教師へ、そして大陸での商人を経て、国民的飲料の創業者となり、最後は全財産を社会に還元した三島海雲。その波瀾万丈の人生は、一杯のカルピスの中に、今も息づいています。
次にあの甘酸っぱい「初恋の味」を口にするとき、モンゴルの大草原で運命の一杯と出会った青年の姿を、そして「国利民福」を貫いた男の志を、少しだけ思い出してみてください。


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