芸能界を代表する二人が通った伝説の学校
お笑い界のレジェンド、ダウンタウンの浜田雅功と今田耕司。二人に共通するのは、三重県の全寮制高校「日生学園」出身者という経歴です。当時の日生学園は「日本一のスパルタ校」として知られ、その過酷な教育内容はYouTubeにもあがっています。
浜田雅功が副学寮長にまで上り詰めた経緯、今田耕司の脱走劇、そして当時の日生学園の実態について詳しく解説します。
日生学園とは?基本情報と歴史
学校の概要
日生学園は1965年に学校法人として創立され、三重県津市と伊賀市に高等学校を展開していました。創立者は青田強氏で、その教育理念は「一流の人間を育てる」というものでした。
- 日生学園第一高等学校(現・桜丘高等学校):1966年開校
- 日生学園第二高等学校(現・青山高等学校):1980年開校
- 日生学園第三高等学校(現・自由ヶ丘高等学校):1983年開校
浜田雅功が通ったのは日生学園第二高等学校、今田耕司は日生学園第一高等学校です。2015年には「日生学園」の名称は各校から消え、現在は青山高等学校などに改称されています。
創立の背景と教育理念
創立者の青田強氏は軍国主義を体験した世代で、「私欲を捨て去り公に尽くす」という考え方を教育の柱としていました。当時の高度経済成長期、企業に献身的な「モーレツ社員」を育てることに重きを置いていたとされています。
当時の日生学園:想像を絶するスパルタ教育の実態
過酷な日常生活
日生学園のスパルタ教育は、軍隊式と表現されるほど厳しいものでした。
1日のスケジュール
- 朝4時半起床(水曜日と日曜日以外)
- 起床後すぐに2キロのマラソン
- 全力で声を出しながらの「全力体操」
- 放課後には10キロのマラソンが義務
- 毎月20キロのマラソン大会も実施
厳格な校則
- 全寮制で外出は月1回のみ
- テレビ、雑誌、漫画は一切禁止
- 唯一の情報源は散髪時の床に敷かれた新聞紙
- トイレ掃除は素手で実施
- 男女交際は厳禁で、違反すれば退学の可能性も
厳しい上下関係と連帯責任制度
日生学園では先輩後輩の上下関係が極めて厳しく、ブラザー制度と呼ばれる仕組みで先輩が後輩を指導していました。一人のミスが全体の責任となる連帯責任制度も採用されており、理不尽な罰則が日常的でした。
浜田雅功は番組で、下級生の失敗で連帯責任を問われ、コンクリートの床で理由も分からないまま8時間から11時間正座させられたエピソードを何度も語っています。
浜田雅功の日生学園時代:脱走から副学寮長へ
入学の経緯
浜田雅功が日生学園に入学したのは、中学時代の札付きの悪ガキぶりが原因でした。友達との約束がドタキャンされたことに腹を立て、その友達の家のドアをノコギリで切って破壊したというエピソードは有名です。
中学の担任から「普通の高校では対応できない」と言われた父親が、スパルタ教育で有名な日生学園を選んだのです。相方の松本人志とも中学時代から悪友同士で、二人で不良行為を繰り返していたとされています。
脱走の試み
あまりの厳しさに耐えきれず、浜田も一度脱走を試みています。松本人志によれば、浜田から「とりあえず、お金を持って迎えに来てくれ」と頼まれ、鶴橋駅まで迎えに行ったそうです。
お腹を空かせていた浜田は、立ち食いうどん屋で熱々のうどんを一すすりで食べるほどだったといいます。しかし結局、両親との相談の末、浜田は学校に戻る決断をしました。
副学寮長という地位
再び日生学園に戻った浜田は、驚くべきことに高校3年生で「副学寮長」という重要なポジションに就きました。副学寮長は他の生徒から一目も二目も置かれる存在で、リーダーシップが求められる役職です。
札付きの悪ガキだった浜田が、わずか3年で組織のトップクラスにまで上り詰めたのです。この経験が、現在の浜田の人心掌握術や司会者としての力量につながっているとも言われています。
今田耕司の日生学園時代:「プリズン・ブレイク」のような脱走劇
入学の背景
今田耕司も中学時代はやんちゃで、近所の駄菓子屋にロケット花火を打ち込むなどの悪行を重ねていました。学校から「来ないで家で反省して」と停学を食らったこともあり、担任から全寮制の日生学園を勧められて入学しました。
壮絶な脱走計画
今田は日生学園第一高等学校に入学しましたが、1年生の秋に脱走を決意します。この脱走計画は、まさに海外ドラマ「プリズン・ブレイク」のような綿密なものでした。
脱走の準備
- 校庭で仲間と小声で計画を練る
- 夏休みの帰省時、パンツの中に電車賃を隠す
- 身体検査はあったがパンツまでは脱がされなかった
- 消灯後、体操着に着替えトイレの窓から脱出
脱走ルート 今田は日生学園の立地を熟知していました。最寄りの駅から電車に乗ると学校に通報される可能性があったため、山を2つ越えて2駅先から電車に乗る計画を立てました。そして見事、脱走に成功したのです。
学校への帰還と退学
しかし、退学手続きのため保護者同伴で学校に戻ったところ、衝撃的な出来事が待っていました。担任教師が母親の目の前で「学校を続けると言うまで殴る」と宣言し、実際に体罰を受けたのです。
今田は3発目で「やります!」とギブアップしましたが、結局1年生の冬休みに帰省した際、二度と学校には戻らず正式に退学しました。
退学後の人生
日生学園を退学した今田は、ラーメン屋でアルバイトをしながら清風高等学校定時制に編入します。昼間は「日本一若い店長になる」ことを目標にラーメン屋で働き、そこで身につけた野菜の千切り技術は今でも得意だそうです。
その後、入学金5万円という手頃さに惹かれて吉本総合芸能学院(NSC)に軽い気持ちで入学。これが今田の人生を大きく変えることになりました。
脱走者が続出した理由
日生学園からの脱走者は今田だけではありませんでした。卒業生の証言によれば、「夜中に脱走した生徒が山中の国道脇を歩いているのは有名な話」だったそうです。
しかし、最寄り駅までは3キロあり、毎日走っている生徒たちは足が速いため、脱走者はすぐに捕まることがほとんどでした。脱走者が出ると、他の生徒は帰ってくるまで正座で待つか、懐中電灯を持って付近の山狩りを行わされたといいます。
日生学園が社会問題化した背景
事件と内部告発
1980年代、日生学園は度重なる事件で社会問題化しました。
- 生徒同士の暴行事件が頻発
- 不審な死亡事件の発生
- 自殺者の続出
- 1985年、教師による週刊誌への内部告発
- 国会答弁で取り上げられるほどの社会問題に
特に衝撃的だったのは、夜中に生徒が食堂のシャッターに首を挟まれて圧死した事件です。なぜ夜中の食堂にいたのか、不可解な点が多い事件として記録されています。
過酷な教育の具体例
当時の日生学園の教育内容は、現代では考えられないものでした。
- 40度の高熱でも病院に連れて行かれない
- 雨でも雪でも傘の使用禁止
- 便器を素手で直接磨く掃除
- 理由を告げられない長時間の正座
- 先輩や教師からの暴力・リンチ
- 連帯責任による理不尽な罰則
現在の日生学園:激変した教育方針
校名変更と方針転換
2015年、学校法人日生学園創立50周年を記念して、日生学園第二高等学校は「青山高等学校」に校名を変更しました。創設者の青田強氏が1986年に亡くなり、息子の青田進氏が学園長を引き継いでからは、教育方針が大きく変わりました。
新しい日生学園の特徴
変わったこと
- スパルタ教育の廃止
- 体罰の禁止
- 進学校への転換
- 国公立大学や早稲田大学などへの進学者輩出
- 不登校や引きこもりの生徒を受け入れる学校へ
残っているもの
- 全寮制という基本形態
- ブラザー制度による先輩後輩の交流
- マナーや敬語への厳しさ
- 早朝マラソンなどの一部の伝統
現在の青山高等学校は、イギリスのイートン校をモデルとした21世紀型グローバル教育を掲げ、新しい全寮制教育に取り組んでいます。偏差値は38〜42程度ですが、進学実績は着実に向上しているようです。
浜田雅功が語る日生学園の影響
浜田は番組で日生学園時代のエピソードを「鉄板ネタ」として何度も披露しています。当時は「地獄」だったと表現する一方で、今では笑い話として語れるまでになりました。
日生学園での3年間は、浜田に強靭な精神力と忍耐力をもたらしました。「自衛隊に入った卒業生が高校生活に比べると楽勝だった」と話すほどです。芸能界の荒波も、日生学園に比べれば余裕だったのかもしれません。
極限の環境が生んだ二人のスター
浜田雅功と今田耕司という、現在の日本のお笑い界を代表する二人が同じ日生学園出身というのは興味深い事実です。
浜田は脱走を試みながらも戻り、最終的に副学寮長という地位まで上り詰めました。この経験が現在の司会者としての統率力や人心掌握術につながっていると言えるでしょう。
一方、今田は「プリズン・ブレイク」のような脱走に成功し、別の道を歩みました。アルバイトを経て芸能界入りし、浜田の後輩として活躍しています。
二人とも日生学園での経験をネガティブなものとしてだけでなく、自分の成長の糧として語っています。極限の環境が、彼らの精神力と個性を鍛え上げたことは間違いないでしょう。
現在の青山高等学校は、かつてのスパルタ教育から脱却し、不登校生徒の受け皿として新たな役割を果たしています。「日生学園」という名前は消えましたが、全寮制教育という伝統は形を変えて受け継がれているのです。


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