中学時代に桑田真澄を魅了した投手
大阪府守口市で生まれた清水哲氏は、1960年代に野球少年として育った。守口市立八雲中学校でエースとして活躍し、チームを2年連続大阪府下大会優勝に導いた実力派投手だった。
清水氏の運命を変えたのは、中学3年生の時の試合である。対戦相手は八尾市立大正中学校。当時2年生だった桑田真澄が所属するチームを、清水氏率いる八雲中学は2対1で破った。この試合で桑田は清水氏の投球を目の当たりにし、そのキレとコントロールの素晴らしさに強い衝撃を受けた。
後に甲子園で20勝を挙げ、プロ野球界でも活躍する大投手となる桑田真澄が、中学生の時に心から憧れた先輩。それが清水哲氏だった。桑田氏は清水氏を慕い、彼の後を追うようにしてPL学園への進学を決意する。
PL学園での栄光の日々
PL学園に入学した清水氏は、野球部で順調に成長を遂げた。1年後輩として入学した桑田真澄との関係は、寮でも同室となり、先輩後輩の枠を超えた深い絆で結ばれていく。桑田は清水氏の「付き人」を務めるほどで、清水氏も桑田を弟のように可愛がった。
1983年、清水氏がPL学園3年生の時、チームは春夏連続で甲子園に出場。両大会とも準優勝という輝かしい成績を残した。特に印象深いのは夏の大会決勝戦、取手二高との一戦である。
9回裏、PL学園は1点を追う展開。この場面でバッターボックスに立った清水氏は、劇的な同点ホームランを放った。子どもの頃にテレビで見たPL学園の先輩たちの活躍に憧れ、自らも甲子園で奇跡を起こしたいと願っていた清水氏にとって、この一打は夢の実現そのものだった。試合は延長戦の末に惜しくも敗れたが、清水氏の同点弾は今も語り継がれる伝説の一打となっている。
高校時代の身体能力と野球への情熱
清水氏は投手としてだけでなく、打者としても優れた技術を持っていた。巧打者として知られ、チームの勝利に貢献する場面が多々あった。また、外野手としてもプレーし、守備範囲の広さと強肩を活かした守備を見せた。その高い身体能力と野球センスは、同期の選手たちからも一目置かれる存在だった。
桑田真澄が1年生の夏から甲子園に出場できたのには、複数の要因があった。その一つが清水氏の怪我である。前年秋からレギュラーだった清水氏が肋骨を折ったことで、投手としてのメンバー入りが難しくなった。これが結果として、桑田の早期抜擢につながったのだ。
清水氏は高校卒業後、同志社大学文学部に進学。野球部に入部し、大学でも野球を続ける道を選んだ。未来に希望を持ち、さらなる成長を目指していた矢先の出来事だった。
不慮の事故が人生を一変させた
1985年秋、同志社大学野球部に入部して1年後のこと。関西学生リーグの公式戦で、清水氏の人生を変える事故が起きた。
5回裏、フォアボールで出塁した清水氏は2塁への盗塁を試みた。ベンチからヒットエンドランのサインが出たと思い込み、全力で走り出したが、次打者は打たずに見送った。タイミングが遅れた清水氏は、セカンドベースカバーに入ってきたショートの選手と激しく衝突。ヘッドスライディングのタイミングを失った清水氏の首に、これまで経験したことのない激痛が走った。
診断結果は頸椎骨折。首の骨が折れ、頸椎を損傷していた。一命は取り留めたものの、肩から下が動かなくなり、清水氏は車椅子での生活を余儀なくされた。わずか19歳、大学1年生の秋のことだった。
絶望の淵から再び立ち上がるまで
病院のベッドの上で、清水氏は絶望に打ちひしがれた。野球を続けることはおろか、日常生活すら自分ではできない体になってしまった。「人に迷惑をかけるくらいなら死んでしまった方がいい」とまで思い詰めた。しかし、手足が動かないため、自ら命を絶つこともできなかった。
お見舞いに訪れた桑田真澄に、清水氏は「俺を殺してくれ」とまで懇願したという。しかし桑田は、あえて野球の話をたくさんした。清水氏のためにも頑張ると誓い、その言葉通りに甲子園で活躍を続けた。
清水氏を支えたのは、桑田だけではなかった。PL学園の同級生たちが中心となって「哲和会」という支援組織を結成。野球仲間たちが献身的に清水氏を支え続けた。清水氏を救ったのは、かつて自分を苦しめた野球と、野球を通じて築いた仲間との絆だった。
結婚という新たな人生の決断
事故後、清水氏は当初、結婚する気はまったくなかった。「結婚した相手に介護の負担をかけたくない」という思いからだった。
しかし、一人暮らしを始めて3年ほど経った頃、派遣されてきたホームヘルパーの由美子さんと出会う。関わりを深めるうちに、清水氏の心境に変化が生まれた。障害者の友人たちの結婚の難しさを知り、自分が結婚することで「障害者でも結婚できる」という道を示すことができるのではないかと考えるようになった。
清水氏は単に自分の幸せを追求するだけでなく、障害者が人間らしく生きていける社会を実現したいという願いを持って、結婚を決意した。現在、妻の由美子さんとともに歩む清水氏の姿は、多くの人々に勇気を与えている。
現在の活動と今も続く絆
清水氏は現在、講演活動、本の執筆、NPO法人での介護サービス事業など、幅広い分野で活躍している。講演のテーマは「生きる勇気をありがとう」「命の大切さ」「障害者から見た現在の福祉」など。これまでに45都道府県で講演を行い、自らの体験を通じて多くの人々に生きる勇気を伝えてきた。
1997年には『桑田よ 清原よ 生きる勇気をありがとう』という書籍を出版。自身の体験と、後輩たちへの思いを綴った。
さらに驚くべきことに、清水氏は2019年、マスターズ甲子園に出場するPL学園チームの監督を務めた。車椅子に乗りながら、かつての仲間たちと再び甲子園を目指す姿は、野球への変わらぬ情熱を物語っている。
桑田真澄と清原和博が今も慕い続ける理由
桑田真澄は今も、清水氏への敬意と感謝を忘れていない。中学時代に清水氏の投球に憧れ、PL学園への進学を決意した桑田。寮で同室となり、野球の技術だけでなく、人として大切なことを多く学んだ。
清水氏の事故後、桑田は何度も病院を訪れ、清水氏を励まし続けた。清原和博もまた、先輩である清水氏への尊敬の念を持ち続けている。
彼らが清水氏を慕い続ける理由は、単に先輩後輩という関係を超えている。清水氏の野球への純粋な情熱、仲間を大切にする心、そして何より、絶望的な状況から立ち上がり、前向きに生きる姿勢に、二人は深く感銘を受けているのだ。
清水氏は野球で体の自由を失ったが、同時に野球が自分を救ってくれたと語る。野球がなければ出会えなかった仲間、野球がなければ生まれなかった講演や執筆の機会。すべてに感謝しながら、清水氏は今日も人生の「逆転ホームラン」を目指して生きている。
まとめ
清水哲氏の人生は、栄光と挫折、絶望と希望が交錯する壮絶なものだった。中学時代に桑田真澄を魅了し、PL学園で甲子園の舞台に立ち、劇的な同点ホームランを放った清水氏。大学進学後、野球の試合中の不慮の事故により頸椎を損傷し、肩から下が動かなくなった。
しかし清水氏は絶望に打ち勝ち、講演活動や野球の監督として、新たな人生を切り開いていった。桑田真澄と清原和博が今も清水氏を慕い続けるのは、その不屈の精神と、野球を通じて築かれた深い絆があるからに他ならない。
清水氏の物語は、どんな逆境に立たされても、人は再び立ち上がることができるという希望を、私たちに示してくれている。




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