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松坂大輔から4安打を放った田中一徳が活躍できなかった理由|尼崎出身のプロ野球選手

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尼崎
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はじめに—あの延長17回で松坂と対峙した核弾頭

1998年夏、甲子園準々決勝。延長17回の死闘となったPL学園対横浜の一戦は、今なお高校野球史に刻まれる名勝負として語り継がれている。「平成の怪物」松坂大輔が250球を投げ切った伝説の試合で、PL学園の1番打者として松坂から4安打を放った選手がいた。

田中一徳だ。

兵庫県尼崎市出身のこの小柄な外野手は、圧倒的な身体能力と勝負強さでプロ野球への扉を開いたものの、その後、プロの壁に跳ね返された。なぜドラフト1位指名を受けた逸材が、一軍で活躍できなかったのか。

田中一徳の栄光と挫折を振り返る。

尼崎で育まれた野球魂—福沢卓宏らとともに

田中一徳は1981年10月28日、兵庫県尼崎市に生まれた。ボーイズリーグ時代には全国大会に4度出場し、世界大会でも優勝を経験している。

この時期、田中と同じ「兵庫尼崎」でプレーしていたのが福沢卓宏である。福沢は尼崎市立大成中学校時代にボーイズリーグの「兵庫尼崎」でプレーし、後に滝川第二高校のエースとして甲子園で活躍、1999年のドラフト会議で中日ドラゴンズから2位指名を受けた。

尼崎という土地は、当時から多くの野球人材を輩出する地域だった。

中学時代から全国レベルの舞台を経験してきた田中は、確かな実力と野球センスを身につけ、名門PL学園への進学を決断する。

なぜPL学園を選んだのか—野球エリートへの道

1990年代後半、PL学園は高校野球界の頂点に君臨していた。清原和博、桑田真澄のKKコンビを輩出し、甲子園での圧倒的な強さは「PL黄金時代」と呼ばれた。全国から選りすぐられた才能が集結する環境こそが、田中にとっての理想だった。

中学時代に世界大会優勝という実績を持つ田中にとって、PL学園は自らの才能をさらに高める最高の舞台だった。厳しい寮生活と徹底した野球指導、そして全国制覇を目指す仲間たちとの切磋琢磨。そこには、プロ野球選手になるための全てがあった。

松坂大輔から4安打—1998年夏の衝撃

田中一徳の名が全国に轟いたのは、高校2年時の1998年夏である。

第80回全国高等学校野球選手権大会準々決勝の横浜高校戦で、松坂大輔から4安打を記録した。この試合は延長17回、3時間37分に及ぶ壮絶な戦いとなった。PLの1番打者・田中一徳が高打率.647を残し、松坂から7得点を奪う原動力となった。

田中は当時を振り返り「松坂さんと初めて対戦したのは98年のセンバツ大会準決勝でした。松坂さんの投げるボールは、生まれて初めて見る凄い球でした」と語っている。それでも、夏の再戦に向けて田中は準備を重ねた。素振りを繰り返し、松坂をイメージし続けた。

結果は惜しくも9対7で敗戦。しかし、平成の怪物から4安打を放った2年生の活躍は、スカウトの目に強烈に焼き付いた。

アジア野球選手権日本代表—2年生の快挙

甲子園での活躍はそれだけではなかった。大会後、第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表に2年生では大島裕行と2人のみ選出された。大会では一番打者として活躍し、韓国の白嗟承に最も印象に残った打者と言わしめる活躍を見せた。

国際舞台でも通用する打撃技術とスピード。田中の評価は急上昇し、翌年のドラフト1位候補として注目されるようになった。

横浜ベイスターズからドラフト1位指名

1999年の第71回選抜高等学校野球大会では準決勝進出を果たし、田中は最終学年でもチームを引っ張った。そして、運命のドラフト会議。

1999年のドラフト会議にて横浜ベイスターズから1位指名を受けて入団した。前年に松坂大輔から4安打を放った選手を、因縁の横浜が指名するという劇的な展開だった。期待は高まり、田中はプロの世界へと足を踏み入れた。

プロでの苦悩—通用しなかった理由

しかし、プロの壁は想像以上に高かった。

1年目から1軍出場を果たし、3年目の2002年には112試合に出場し打率.256(172打数44安打)1本塁打8打点6盗塁を記録した。

一見すると悪くない数字だが、レギュラー定着には至らなかった。主に守備固めや代走としての起用が中心で、打撃での決定力不足が課題となった。

なぜプロで通用しなかったのか

1. パワー不足
高校時代に光った俊敏性とミート力だけでは、プロの投手を打ち崩すことができなかった。小柄な体格ゆえにパンチ力に欠け、長打が少なかった。

2. 技術的な伸び悩み
田中選手は腰をかがめてかなり小さく構えるバッティングフォームをするなど色々と試行錯誤していたが、1軍レギュラーの壁は破ることができなかった。フォーム改造を重ねたものの、軸が定まらず打撃が安定しなかった。

3. 競合相手の層の厚さ
当時の横浜には多くの有望選手が在籍しており、ポジション争いは熾烈だった。田中の持ち味を活かすチャンスが限られていた。

2006年も一軍出場はなく、9月に戦力外通告を受けて退団した。わずか7年でプロ野球人生は終わりを告げた。

戦力外通告後—アメリカ独立リーグへの挑戦

2006年の12球団合同トライアウトに参加するが、獲得する球団はなくアメリカに渡った。この様子は2007年1月6日にTBSで放映されたドキュメンタリー番組『プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達』で特集された。

田中は諦めなかった。2年間アメリカでプレーした後、もう一度12球団合同トライアウトに参加したが、どこからも声がかからなかったため現役を引退した。

しかし、野球への情熱は消えることはなかった。現在は千葉県の名門・拓大紅陵高校のコーチをしている。また、日本経済大学野球部のコーチとしても活動している。

田中一徳が残したもの

田中一徳という選手は、高校野球界で確かな足跡を残した。松坂大輔から4安打、アジア大会日本代表、ドラフト1位指名。これらは紛れもない実績であり、才能の証明だった。

しかし、プロの世界では輝けなかった。それは決して努力不足ではなく、プロ野球という舞台がそれほど厳しい場所だったからだ。高校球界のスターがプロで苦戦する例は珍しくない。むしろ、田中のようなケースは多くの若者に「才能だけでは通用しない」という教訓を与えてくれる。

現在、指導者として後進を育てる田中一徳。彼の経験は、夢を追う若者たちにとって貴重な財産となるはずだ。栄光も挫折も知る男だからこそ、伝えられることがある。

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