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明石家さんまと島田紳助|吉本同期が語る若手時代の苦楽とエピソード

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はじめに:お笑い界の双璧が歩んだ同じ道

1974年、吉本興業に二人の若者が同期入社した。一人は奈良から上京した杉本高文、もう一人は京都出身の島田紳助。のちに「明石家さんま」として日本の笑いを牽引する存在となる男と、「喋りの天才」と評される司会者の原点は、この厳しい下積み時代に根ざしていた。

5000円のために走り回った若き日々

お金もない若手時代、二人は会社に内緒で営業に出かけた。生活費を稼ぐために、わずか5000円や1万円の報酬を求めて、今では考えられない「闇営業」を繰り返していた時期があった。

当時のお笑い芸人にとって、吉本興業からもらえる仕事は限られていた。そんな中、紳助がさんまを相方にしようとコンビ結成を打診していたという事実は、あまり知られていない。結局さんまは断り、紳助はその後松本竜介とコンビを組むことになるのだが、この頃から二人の関係は始まっていた。

一万円のギャラに惹かれて営業に行き、スーパーのイベントや野外のアシカショーで大失敗したというエピソードは、後年二人が語る笑い話の定番となった。しかし当時は笑えない厳しい現実だった。食べるための必死の営業活動だったのだ。

お互いの芸名を笑い合った二人

紳助は「島田紳助」という芸名が決まった時、さんまから「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれた。一方で、さんまが「明石家さんま」という名前をもらった時には、紳助が大笑いして「こいつ終わった」と言ったという。

お互いの芸名を笑い合いながらも、二人はその名前で日本のお笑い界の頂点に立つことになる。この時代の率直な言い合いこそが、後の深い絆の土台になっていったのだ。

「戦友」としての特別な関係

芸能界で成功を収めた後も、二人の関係は続いた。プライベートの電話は必ず紳助からかかってくるそうで、紳助はさんまを「親友」と呼んでいた。

しかしさんまは「一緒に戦場に行った兵隊の気分」と表現しながら、「あいつ、味方撃ちよるからな」と笑いを交えて語った。この独特の表現に、同期として苦楽を共にした者だけが持つ複雑な感情が滲み出ている。

互いに認め合いながらも、けなし合う。それが二人の関係性だった。後輩の松本人志の前で紳助は、「ありがたいと思うよ、同期に優秀な人がいてくれて」「たくましい、強いねん!ものすごい立派な男やで!!」とさんまを称賛していたという。

性格の対比が生んだ補完関係

二人は性格が対照的だった。ヤクザの集会所での営業で、客席からすごまれて何も言えなくなる紳助に対し、さんまは図太さを見せた。繊細で落ち込みやすい紳助にとって、さんまの強さは畏敬の念を抱かせるものだった。

一方で、紳助の戦略的思考や計算された話術は、さんまとは異なる才能として輝いていた。二人は違うからこそ、互いを認め合い、刺激し合う関係を築くことができたのだ。

紳助引退後も続く絆

2011年、島田紳助が芸能界を引退した。この時さんまは「同期でいてくれて、お互い認め合いながら、けなし合いながらこれたのは、非常に幸せだったなと思います」と語った。

さらに衝撃的な告白もあった。「紳助がテレビに復帰できるように、実は動いていた」とテレビで明かしたのだ。紳助が戻ってくる場所はここしかないと考え、自身の長寿番組を延長していたという。

これは同期への情けではない。若手時代から苦楽を共にし、日本のお笑い界を一緒に駆け上がってきた戦友への、深い思いやりの表れだった。

同期だからこそ分かり合えること

1974年4月に吉本興業に入社したさんまと紳助は、わずか3ヶ月後の7月に入社したオール巨人から「兄さん」と呼ばれる立場だった。厳しい上下関係の中、二人は同じスタートラインから芸能界という戦場を駆け抜けてきた。

売れない時期の苦しさ、ブレイクの喜び、トップに立った後のプレッシャー。すべてを同じタイミングで経験してきた二人だからこそ、言葉にしなくても分かり合えることがあったのだろう。

まとめ:お笑い界に残る伝説の絆

明石家さんまと島田紳助の関係は、吉本の同期という枠を超えている。5000円、1万円のために走り回った若手時代から、お笑い界の頂点に立つまでの道のりを共に歩んだ二人。互いの芸名を笑い合い、けなし合いながらも、認め合ってきた関係性は、芸能界でも稀有な存在だ。

紳助が引退した今も、さんまの中に彼への思いは色濃く残っている。それは「戦友」としての絆であり、同じ時代を生きた者だけが持つ特別な感情なのだろう。

吉本興業の同期として始まった二人の関係は、今も日本のお笑い史に燦然と輝く伝説として語り継がれている。

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