はじめに:伝説の「いてまえ打線」の裏側にあった現実
近鉄バファローズといえば、豪快な「いてまえ打線」で知られる球団だった。しかし、その華やかな表舞台の裏で、選手たちは驚くべき待遇の悪さに耐えていた。元近鉄の主力選手・金村義明氏が明かす球団の実態は、プロ野球ファンにとって衝撃的なものばかりだ。
現在は野球解説者として活躍する金村氏は、近鉄時代を振り返り、数々の信じがたいエピソードを語っている。特に注目すべきは、のちにメジャーリーグで活躍する野茂英雄投手が、球場の駐車場で車を停められなかったという象徴的な出来事である。
野茂英雄が駐車場で追い返された衝撃の真実
開幕投手なのに駐車拒否
近鉄の本拠地球場には球団役員専用の駐車場は確保されていたが、選手専用の駐車場は設けられていなかった。信じられないことに、開幕投手を任された野茂英雄が自家用車で球場に向かったところ、球団職員から駐車を拒否されたのだ。
この出来事は、近鉄球団が選手をどのように扱っていたかを端的に物語っている。エースとして期待され、史上最多8球団からドラフト1位指名を受けた超大物投手でさえ、球場に車を停めることができなかったのである。
金村義明が選手会長として立ち上がる
この状況を目の当たりにした金村義明氏は、選手会長として球団幹部と粘り強く交渉を重ねた。その結果、ようやく選手専用駐車場の確保が実現した。しかし、これほど基本的な環境整備でさえ、選手側から強く働きかけなければ実現しなかったという事実は、当時の球団体質を如実に表している。
金村義明が明かす近鉄の待遇格差
巨人とはゼロの数が違う勝利給
金村氏によれば、近鉄の待遇は他球団と比べて明らかに劣っていた。投手が完封勝利しても10万円にも満たない賞金しか出なかったという。一方、巨人では同じ条件で100万円程度が支払われていたとされ、文字通り「ゼロの数が1個違う」状態だった。
スポンサーの数も圧倒的に少なく、遠征先での食事も仲間内で済ませることが多かった。巨人や阪神の選手がスポンサーとの豪華な食事を楽しむ中、パ・リーグの近鉄選手は「はよ帰ってバット振れ」と言われる環境だったという。
肖像権も球団が8割搾取
さらに驚くべきは肖像権の扱いだ。カルビーの野球カードに選ばれた場合、球団が8割、選手が2割という配分だった。一流選手になってミズノやゼットと用具契約ができれば状況は改善したが、1年目の選手たちは給料のほとんどが用具費で消えてしまう状態だった。
金村氏自身もミズノと年間200万円の契約をしていたが、そのうち球団が半分以上を持っていったという。これが当たり前だった時代、選手たちは声を上げることさえままならなかった。
食事・宿泊環境の劣悪さ
都ホテルではなく都イン東京
遠征時の宿泊先も格差が顕著だった。近鉄系列の高級な都ホテルには泊まれず、三田の都イン東京が定宿だった。金村氏は笑いながらこう振り返る。「都ホテルという高級なところには泊めさせてくれない。都インの方ですわ」
食事も美味しくなく、選手たちは外食することが多かった。しかし、それが負のスパイラルを生み、球団も料理にお金をかけなくなり、どんどん質が落ちていったという。
キャンプは国民宿舎
キャンプ地の環境も厳しかった。最初は高知県宿毛のホテルに100人程度が宿泊していたが、翌年から仰木彬氏がヘッドコーチに就任すると、宮崎県日向の国民宿舎やかんぽの宿に変更された。設備の充実した環境とは程遠い状況だった。
寮での食事もひどく、寮母が旅行に出かけていると、巻き寿司がピラミッドのように積まれ、「味噌汁を温めてください」との張り紙とカップヌードルが置かれているだけという日もあったという。
野茂英雄の5年連続最多勝で「現状維持」提示
球団の信じられない年俸交渉
金村氏が最も印象的だと語るエピソードの一つが、野茂英雄の年俸交渉だ。なんと5年連続最多勝を達成した5年目に、球団は「現状維持」を提示したというのだ。
野茂は納得せず保留を繰り返した。するとなんと、交渉相手の社長が入院してしまい、最終的には電話交渉で5000万円アップで決着したという。金村氏は「だから1回で印鑑押すやつアホや」と笑うが、この交渉の裏には野茂の強い意志があった。
どんぶり勘定の評価システム
近鉄では選手評価もどんぶり勘定だった。金村氏が後に移籍した西武では出塁率や進塁打などのデータをポイント化して評価していたが、近鉄にはそのようなシステムはなかった。
二軍に至っては、全員が食堂に呼ばれて「これにハンコ押せ」と言われるだけ。それが嫌で辞めた選手もいたという。
金村義明による球団改革の取り組み
浴場改装とチームドクター制度の廃止
選手会長として金村氏が実現した改革は駐車場だけではなかった。1984年にメジャーリーガーのドン・マネーが近鉄に入団したが、球場内のロッカーや浴場の汚さに失望して短期間で退団している。金村氏は球団と交渉し、浴場の改装を実現させた。
さらに、自身が右手有鉤骨を骨折した際、チームドクターの誤診によって回復が遅れた経験から、球団に掛け合ってチームドクター制度を廃止させた。そして選手会の総意でトレーニングコーチとして立花龍司氏を招聘。これが1989年のパ・リーグ優勝の足掛かりとなった。
選手の権利獲得への道のり
金村氏の取り組みは、肖像権をはじめとする選手の権利を勝ち取るための労働組合結成にもつながった。当時のプロ野球界では、選手が自らの権利を主張することは容易ではなかった。しかし、金村氏をはじめとする選手たちの粘り強い交渉が、後の選手たちの環境改善に貢献したのである。
他球団との待遇の違い
西武の手厚い待遇に驚愕
金村氏は近鉄、中日、西武と3球団を経験したが、西武での待遇には驚いたという。西武では誰を上げて誰を下げるかを明確に伝え、出塁率まで細かく評価してくれた。
さらに、ピンチヒッターの切り札としてコーチ兼任で起用される際、金村氏が「お立ち台に乗ったら100万円くれ」と提案すると、「それいいね。上限1000万円まで」と快諾された。このようなインセンティブ制度は、近鉄では考えられないものだった。
中日での契約金減額の現実
一方、中日へのFA移籍では、星野仙一監督の復帰を前提に1億円の3年契約が提示されていた。しかし、星野監督の復帰が延期され、近鉄最終年と同額の「現状維持」に支度金が上乗せされる程度の条件での入団となった。2年目には大幅な減俸を受け入れ、年俸は推定2500万円にまで下がったという。
近鉄バファローズの球団体質が生んだ悲劇
野茂英雄のメジャー流出
近鉄の待遇の悪さと球団体質は、最終的に野茂英雄のメジャー流出という形で表面化した。1993年に鈴木啓示が監督に就任すると、野茂との確執が深まった。根性論を重視する鈴木監督は、野茂のトレーニング方法にまで口を出し、両者の関係は険悪化していった。
野茂は「あの監督の下ではやってられない」と語り、任意引退という形で近鉄を去った。球団は最後まで野茂の主張を理解せず、優秀な投手を手放す結果となった。これは近鉄の選手軽視の姿勢が招いた最大の損失だったと言えるだろう。
吉井理人も同様の理由で退団
野茂だけではない。トレーニングコーチの立花龍司氏も鈴木監督と対立し、1993年限りで近鉄を退団。さらに吉井理人投手も同様の理由でヤクルトへ移籍している。優秀な人材が次々と球団を去っていく状況は、組織としての重大な問題を示していた。
当時のプロ野球界の実態
パ・リーグ全体の待遇問題
金村氏が語るエピソードは、近鉄だけの問題ではなく、当時のパ・リーグ全体が抱えていた構造的な問題を反映している。セ・リーグの人気球団と比べて、パ・リーグは観客動員数も少なく、スポンサーも限られていた。
門田博光、鈴木啓示、山田久志といった超一流選手はノータックスでもらっているという噂があった一方、残りの選手たちを抑えるために推定年俸を安く発表するという手法が取られていたという。これにより、選手たちは正当な報酬を要求しにくい状況に置かれていた。
時代背景とプロ野球の変化
1980年代から90年代のプロ野球界は、現在とは大きく異なる環境だった。選手の権利意識は低く、球団の言うことに従うのが当たり前とされていた。コンプライアンスという概念も一般的ではなく、選手は理不尽な扱いを受けても声を上げにくかった。
しかし、金村氏のような選手会長の努力や、野茂英雄のメジャー挑戦といった出来事が、徐々にプロ野球界の体質を変えていった。現在の選手たちが享受している環境は、こうした先人たちの戦いの上に成り立っているのである。
おわりに:金村義明が残した教訓
金村義明氏が語る近鉄バファローズの待遇エピソードは、昔話ではない。プロスポーツ選手の権利、組織における人材の扱い方、そして改革を実現するためのリーダーシップについて、多くの示唆を与えてくれる。
野茂英雄が駐車場で車を停められなかったという一見些細な出来事の背後には、選手を軽視する球団体質があった。金村氏はそれに対して声を上げ、実際に環境を改善させた。その勇気ある行動が、後の選手たちの待遇改善につながったのだ。
現在、プロ野球界は選手の権利を重視し、環境整備にも力を入れている。しかし、金村氏が経験したような理不尽な扱いは、決して遠い過去の出来事ではない。スポーツ界に限らず、あらゆる組織において、人材を大切にすることの重要性を、これらのエピソードは今も私たちに問いかけている。
金村義明氏の軽快な語り口の裏にある、選手としての誇りと、後輩たちへの思いやり。そして、おかしいことはおかしいと声を上げる勇気。近鉄バファローズという球団は既に存在しないが、そこで戦った選手たちの物語は、これからも語り継がれるべき貴重な記録なのである。


コメント