中国が仕掛けた「条約無効」論争の意味
2025年12月初旬、在日中国大使館が放った言葉は、単なる外交的抗議を超えた重みを持つものだった。高市早苗首相の国会答弁に対し、中国側は1951年のサンフランシスコ平和条約を「不法かつ無効」と公然と主張したのである。
この論争は、一見すると台湾の法的地位をめぐる技術的な議論に見えるが、その本質は全く異なる。これは中国が高市政権に対して仕掛けた「歴史戦」であり、戦後国際秩序における日本の立ち位置そのものを揺さぶろうとする試みなのだ。
高市首相の答弁が引き金となった理由
発端は11月26日の党首討論だった。高市首相は台湾の法的地位について、従来の政府見解を踏襲しながら「サンフランシスコ平和条約で全ての権限を放棄しており、台湾の法的地位を認定する立場にはない」と述べた。この発言自体は日本政府の一貫した立場であり、特段目新しいものではない。
しかし中国外務省は即座に反応した。郭嘉坤報道官は「反省する気がない」と非難し、条約が「中国やソ連など第二次世界大戦の主要当事国を排除した」ものとして無効だと主張。在日中国大使館もSNSで同様の主張を展開し、「国連憲章と国際法の基本原則に違反している」と断じた。
なぜ中国はこれほど激しく反応したのか。それは高市首相が初めて台湾有事について「存立危機事態になり得る」と明言した政治家だからだ。この発言は、安全保障関連法が成立して以来、日本の首相が個別事例に具体的に言及した初めてのケースとなった。
高市政権の対中姿勢──原則と現実の狭間で
高市政権の中国観を理解するには、彼女のこれまでの政治的軌跡を追う必要がある。経済安全保障担当大臣として、高市氏は外為法改正を通じて技術流出防止に注力し、サプライチェーンの強靭化を推進してきた。また、2025年には台湾を訪問し、頼清徳総統と安全保障、経済、民主主義の三分野での連携を確認している。
これらの実績から見えてくるのは、高市政権が中国を「価値観を共有しない隣国」として明確に位置づけているという事実だ。ただし、それは単純な対立路線ではない。
10月31日、高市首相は韓国で習近平国家主席と会談し、「戦略的互恵関係」の推進を確認した。つまり高市政権は、原則的な姿勢を堅持しながらも、対話のチャンネルは維持するという二面的なアプローチを採用しているのである。
米外交誌「フォーリン・ポリシー」は、高市首相が「中国との対立をむしろ楽しんでいるのかもしれない」と分析したが、これは表面的な見方だろう。高市政権の真の狙いは、日本の国益を守るために「毅然とした姿勢」と「現実的な対話」のバランスを取ることにある。
中国が「無効」主張に込めた真の目的
中国がサンフランシスコ平和条約の無効を主張する背景には、複雑な歴史的事情がある。1951年当時、中国は中華人民共和国と中華民国(台湾)に分裂しており、どちらも条約署名国として招かれなかった。このため中国は「主要戦勝国が排除された」と主張するのだが、この論理には重大な矛盾が含まれている。
国際法の原則では、条約に参加していない国がその条約を無効と主張する権利はない。これは「条約の相対効」と呼ばれる基本原則だ。48カ国が署名したサンフランシスコ平和条約は、国際社会で広く承認されており、参加していない中国の主張は法的根拠を欠いている。
それにもかかわらず中国が「無効」を唱える真の目的は、法的な正当性の主張ではない。むしろ、日本国内の世論を分断し、高市政権に外交的圧力をかけることにある。台湾メディアが指摘するように、中国は高市首相の発言が「1951年以前は日本が台湾に主権を有していた」という解釈につながることを極度に警戒しているのだ。
高市政権が描く「三つのシナリオ」
では、高市政権は今後の日中関係をどのように舵取りしていくのか。考えられるシナリオは三つある。
第一は「原則維持・対話継続」路線だ。サンフランシスコ平和条約の有効性を堅持しつつ、経済や文化交流では協力関係を維持する。現時点では、これが最も現実的な選択肢である。実際、高市首相は中国との首脳会談で「建設的かつ安定的な関係」の構築を確認している。
第二は「段階的な距離化」シナリオだ。経済安全保障の観点から、重要技術分野での対中依存度を段階的に低減し、サプライチェーンを再編する。これは「政冷経熱」から「政冷経冷」への移行を意味する。
第三は「対立の先鋭化」だ。尖閣諸島周辺での緊張や台湾問題で妥協せず、同盟国との連携を強化しながら中国に対峙する。ただし、このシナリオは日本経済に大きなダメージを与えるリスクがある。
高市政権は恐らく、第一のシナリオを基本としながら、状況に応じて第二のオプションを織り交ぜる戦略を採るだろう。その背景には、日本が直面する厳しい地政学的現実がある。
経済安全保障という新たな戦場
高市政権の対中政策で最も注目すべきは、経済安全保障を外交の中核に据えている点だ。これは従来の「政経分離」から大きく転換した姿勢である。
具体的には、半導体や先端素材など重要技術の流出防止、中国企業による日本企業の買収規制、サイバー防衛体制の強化などが挙げられる。高市氏は経済安全保障担当大臣時代、これらの政策を着実に推進してきた。
中国側もこの動きを警戒している。経済的な相互依存を外交カードとして使えなくなれば、中国の対日影響力は大幅に低下する。だからこそ中国は、高市政権に対して歴史問題を持ち出し、政治的圧力をかけているのだ。
同盟国との連携が鍵を握る
高市政権の対中戦略において、もう一つの重要な柱が日米同盟の強化と多角的外交の展開だ。米国との緊密な連携を維持しながら、オーストラリア、インド、欧州諸国との協力関係を深める「自由で開かれたインド太平洋」構想は、高市政権の外交政策の根幹をなしている。
台湾との関係強化も、この文脈で理解できる。高市首相は台湾を「民主主義の価値を共有するパートナー」と位置づけており、経済・安全保障の両面で連携を深めている。これは中国にとって看過できない動きだ。
英メディアは「高市の台湾発言は、中国にとって日米同盟を試す絶好の機会になった」と指摘している。つまり、中国は高市政権に圧力をかけることで、日米同盟の結束や日本国内の世論の分断を図っているのである。
歴史認識問題という「弱点」
ただし、高市政権にも懸念材料はある。それは歴史認識問題だ。高市首相は靖国神社参拝を継続する意向を示しており、中国側はこれを強く批判している。歴史問題は中国が対日外交カードとして長年使ってきた「伝家の宝刀」であり、国内世論を喚起しやすいテーマでもある。
高市政権がこの問題でどのような姿勢を取るかは、今後の日中関係を左右する重要な要素となる。原則を貫くのか、それとも現実的な妥協を図るのか。佐藤優氏が指摘するように、高市首相は「リアリズムに徹するのか、保守強硬派として筋を通すのか」という難しい選択を迫られることになるだろう。
日本が取るべき道とは
サンフランシスコ平和条約をめぐる中国の「無効」主張は、表面的には法律論争に見えるが、その本質は戦後国際秩序における日本の立ち位置をめぐる政治的な攻防である。中国は高市政権に対し、歴史問題を通じて外交的圧力をかけ、日本の対中政策を軟化させようとしている。
これに対し高市政権は、原則的な姿勢を堅持しながらも対話のチャンネルを維持するという、バランスの取れたアプローチを採用している。経済安全保障の強化、同盟国との連携、そして現実的な外交──これらが高市政権の対中戦略の三本柱だ。
今回の論争が示しているのは、日中関係が新たな段階に入ったという事実である。従来の「政経分離」や「曖昧な戦略」は通用しなくなり、日本は明確な戦略と覚悟を持って中国と向き合わなければならない時代を迎えている。
高市政権がこの困難な舵取りに成功するかどうか。それは日本の将来を左右する重要な試金石となるだろう。中国の「歴史戦」に惑わされることなく、国益を守る賢明な判断が求められている。


コメント