全国から注目された中学時代〜38校からのオファー殺到
タレントで俳優の上地雄輔。多くの人は彼を「クイズ!ヘキサゴン」での”おバカキャラ”や、歌手・遊助としての姿で知っているだろう。
しかし、その華やかな芸能活動の裏には、青春のすべてを野球に捧げた、もうひとつの人生があった。
上地が野球を始めたのは6歳の時。横須賀市の少年野球チームで白球を追い始めた少年は、驚異的なスピードで才能を開花させていった。小学校時代には全日本代表に選出。中学時代には軟式野球クラブチーム「横須賀スターズ」でキャプテンを務め、ここでも全日本代表に選ばれるなど、その実力は全国レベルだった。
そして中学1年の頃から、すでに複数の高校野球部監督が彼の獲得に動き始めた。最終的に上地の元には38校もの野球推薦オファーが殺到。神奈川の天才捕手は、全国の強豪校が喉から手が出るほど欲しがる逸材だったのだ。
運命の一球〜横浜高校を選んだ理由
38校もの選択肢があった上地が、最終的に選んだのは神奈川県の名門・横浜高校だった。その決断には、運命的な出会いがあった。
中学3年の夏、上地はテレビで神奈川県大会準決勝を観戦していた。その時、画面に映ったのは横浜高校の1年生投手・丹波慎也の姿。快刀乱麻の投球と、マウンドでのカッコ良さに魅了された上地は、心を決めた。
「この人のボールを受けてみたい」
その瞬間、上地の進路は決まった。横浜高校には年にわずか3名しか認められない野球特待生として進学。憧れの丹波とバッテリーを組むという夢は実現した。しかし、丹波は高校2年生の1995年8月、心臓肥大による急性心不全で突然この世を去る。享年17歳。横浜高校野球部監督・渡辺元智氏が「総合的に見て松坂より上だった」と評した天才投手の突然の死は、上地に大きな衝撃を与えた。
平成の怪物とのバッテリー
丹波の死後、上地は新たな才能とバッテリーを組むことになる。それが、1学年下の1年生エース・松坂大輔だった。

のちに「平成の怪物」と呼ばれ、プロ野球、さらにメジャーリーグでも活躍する松坂。その剛速球を受け止めたのが、上地雄輔だった。上地自身が「野球の頭はめちゃくちゃ良い」と語るように、彼のリードは高く評価されていた。松坂とのバッテリーでは、すべて上地が組み立てたリード通りに投球が進められたという。
高校3年時の関東大会では松坂とバッテリーを組んで出場し、見事優勝を果たした。横浜高校の捕手として、上地は甲子園を目指していた。プロ野球に進む可能性も十分にあった。複数の大学からも野球での推薦入学のオファーが届いていた。
転機となった怪我〜10ヶ月の空白
しかし、運命は再び上地を試すことになる。
高校2年生の夏の大会。試合中、上地は右肘に激痛を感じた。「ブチッ」という音とともに、右肘の神経が切れたのだ。それでも上地は2イニング投げ続けたが、監督に異変を指摘され、ベンチで確認すると腕は大きく腫れ上がっていた。
この怪我が、上地の野球人生を大きく変えることになる。手術が必要な重傷で、10ヶ月もの間、野球ができなくなった。リハビリの日々。筋トレすらままならない状態。「もう野球はできないかもしれない」— そんな絶望が上地を襲った。
怪我が治りかけた頃、今度は足を負傷。ベンチに戻ることすらできなかった。翌年1月に病院を変えて手術を受け、ようやく高校3年の5月の関東大会に間に合った。しかし、夏の神奈川大会では1学年下の小山良が実質的に正捕手を務め、上地は完全にレギュラーとして戻ることはできなかった。
野球を辞める決断〜20年以上の葛藤
10ヶ月の空白期間。練習から離れ、リハビリに明け暮れる日々の中で、上地は初めて立ち止まって考えた。
「怪我が無かったら、野球で大学に行くのが当たり前だと思っていた。でもリハビリしている期間にいっぱいいろんな事を考えて、将来のこと、親、監督、仲間、ファンのことを考えて、『ちょっと待って下さい』と監督に伝えました」
6歳から始めた野球。小学校、中学校、高校と、人生のすべてを捧げてきた白球。しかし上地は、野球を辞める決断をした。複数の大学からの推薦入学の話をすべて断り、野球とは無関係の道を選んだ。
その後、芸能界からスカウトを受け、1999年にドラマ「L×I×V×E」で俳優デビュー。しかし、高校野球界のエリートという経歴は、彼にとって複雑な感情を呼び起こすものだった。
インタビューで上地は語っている。「よく野球のことを言われるんですけど、もう20、30年近く前のことなので、正直あまりよく覚えてないんです」。しかしその言葉の裏には、青春のすべてを捧げた野球への、複雑な想いが渦巻いていた。
野球から離れて見えたもの
甲子園出場という履歴は、時に武器になる。就職の面接で履歴書に書けば、多くの人が興味を持ってくれる。しかし上地は言う。「でもそこで満足したらダメだし、いつまでもその話をしていてもしょうがない」。
野球を辞めた選択が正しかったのか。野球から離れた人生が間違いではなかったと証明するための、長い道のりが始まった。野球という存在は、時に「なにくそ」という闘志を燃やすための薪となり、時に進むべき道を照らす友となった。
2008年、「クイズ!ヘキサゴン」でブレイク。”おバカキャラ”として一世を風靡し、「羞恥心」での歌手活動、そして俳優として数々のドラマや映画に出演。野球とは全く異なるフィールドで、上地は確かな足跡を残してきた。
2021年10月、松坂大輔の引退時には、SNSで「引退試合あるなら俺がマスクを被りたいぐらいだぜ」とエールを送った。そして実際に、約10年ぶりとなる松坂とのキャッチボールが実現。「音が鳴り響いて 15歳に戻れた気がした夜 ありがとう」と綴った上地の言葉には、野球への変わらぬ愛情が滲んでいた。
2023年のWBC日本優勝時には、「野球をやってて良かった!野球をやらせてくれて良かった!!こんな俺でも良かった!!!世界中のわんぱく野球バカにそう思わせてくれた気がします」とインスタグラムで喜びを爆発させた。
今も続く野球との絆
現在も母校・横浜高校の活躍を見守り続ける上地。2024年のセンバツ優勝時には、「俺は何もしてませんw 野球してねーし球場にも行ってないし。ただ『頑張れー』と思ってただけです笑」と謙遜しながらも、後輩たちの快挙を心から祝福した。
38校が欲しがった天才捕手。松坂大輔とバッテリーを組んだ実力者。プロへの道も開かれていた逸材。しかし上地雄輔は、怪我という試練を経て、別の人生を選んだ。
その選択は正しかったのか。それは誰にもわからない。ただ確かなのは、野球という青春の記憶が、上地雄輔という一人の人間を形作る大切なピースであり続けているということだ。
白球を追いかけた少年時代。その輝きは、今も彼の中で色褪せることなく輝き続けている。


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