はじめに
明治という激動の時代、「女性に学問は不要」とされた社会の常識に真っ向から挑み、日本の近代化に大きな足跡を残した一人の女性がいます。大同生命創業者の一人であり、日本女子大学の設立にも尽力した広岡浅子──その生涯は、まさに座右の銘である「九転十起」を体現したものでした。
伝説の女性実業家・広岡浅子の人生を彩る重要なエピソードを通じて、彼女がいかにして時代の壁を打ち破り、現代にまで続く遺産を築いたのかをご紹介します。
17歳で豪商へ嫁ぐ──運命の幕開け
1849年、京都の豪商・三井家に生まれた浅子は、17歳で大坂の豪商・加島屋の次男である広岡信五郎と結婚しました。実はこの縁組は、浅子がわずか2歳の時に既に決まっていたのです。
当時の浅子は、裁縫や茶の湯といった花嫁修業よりも、学問への強い興味を持つ少女でした。しかし商家の風習では「女性に教育は不要」とされ、家族から読書を禁じられていました。13歳の頃には「女子と雖も人間である。学問の必要がないという道理は無い」という考えを抱いていたと伝えられています。
結婚後、浅子が嫁いだ先は、大坂でも屈指の豪商でした。加島屋の商いは大きく三つ──米仲買への融資、諸藩の蔵屋敷の管理、そして最も大きな商いである諸藩への融資でした。
しかし運命は、この若き花嫁に想像を超える試練を用意していました。1867年11月の大政奉還により、加島屋は大名への貸し金総額900万両を無にするところだったのです。明治維新という時代の大転換点が、加島屋の存続を脅かしました。
この危機に際して、のんびりとした家風に馴染めず商いの行く末に不安を感じた浅子は、自ら未来を切り拓くべく、積極的に経営に関わろうと決意します。夫の信五郎が理解ある人物だったことも、浅子の活躍を後押ししました。浅子が学問をする時には信五郎もともに学び、からかい半分で浅子を「先生」と呼ぶこともあったと伝えられています。
こうして17歳での結婚は、単なる政略結婚ではなく、浅子が実業家として羽ばたくための出発点となったのです。
炭鉱事業──絶望から希望への転換
加島屋の再建のため、浅子が目をつけたのが炭鉱事業でした。日本の近代化には石炭が不可欠であり、そこに大きなビジネスチャンスを見出したのです。
1884年、浅子は炭鉱経営に乗り出します。福岡県飯塚市にある潤野炭鉱を買い取り、経営に参画しました。しかし、これは決して順風満帆な事業ではありませんでした。
当初、炭鉱からは十分な産出量が得られず、経営は困難を極めます。炭鉱経営に携わった時期には、ピストルを懐に忍ばせ、現場で男性と渡り合いながら働いたという逸話が残っているほどです。女性が炭鉱の現場に立つこと自体が異例だった時代、浅子は着物姿で坑内を視察し、坑夫たちと直接対話しながら問題解決に取り組みました。
落盤事故も発生し、処理費用や補償金で借金地獄に逆戻りしかけた時期もありました。しかし浅子は決して諦めませんでした。1897年、ついに潤野炭鉱は産出量が急増し、優良炭鉱へと生まれ変わりました。何度苦境に遭っても決してあきらめない、この体験が浅子の「九転十起」の元となったのです。
この炭鉱事業の成功により、加島屋は経営を立て直すことができました。浅子の先見の明と不屈の精神が、家業を救ったのです。
大同生命の設立──社会のための保険事業
炭鉱事業で成功を収めた浅子は、1888年に加島銀行を設立し、金融業にも進出します。そして次に彼女が着目したのが、生命保険事業でした。
浅子自身が健康を害したことで、保険の必要性を感じての事業参入だったといいます。自らの病の経験から、万が一の時に家族を守る仕組みの重要性を痛感したのです。
1902年、加島屋が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との合併により、大同生命が設立されました。社名の「大同」には「小異を捨てて大同につく」という意味が込められており、協調と共存の精神を表しています。
浅子は単に利益を追求するのではなく、事業を通じて社会に貢献することを重視しました。有能な人材である中川小十郎を招聘し、大同生命の創業に深く関わるなど、その手腕を遺憾なく発揮しました。
大同生命は現在も中小企業経営者向けの保険に強みを持ち、浅子の志は120年以上経った今も受け継がれています。
女性の地位向上──日本女子大学の設立
実業家として成功を収めた浅子ですが、彼女の情熱は経済活動だけに留まりませんでした。自らの少女時代の苦い経験が、女子教育への強い思いを生んだのです。
幼少の頃に読書を禁じられたこと、そして独力で算術を学んだ自身の経験から、浅子は女子教育の必要性を強く感じていました。女性にも学ぶ機会を与え、社会で活躍できる環境を整えることが、浅子の使命となったのです。
転機は1896年に訪れます。教育家の成瀬仁蔵との出会いです。女子高等教育機関、すなわち女子大学設立を目指していた成瀬仁蔵の考えに浅子は強く賛同し、物心両面で設立運動に協力しました。
浅子は政財界の有力者たちに働きかけ、寄付を募り、設立資金の調達に奔走します。1901年、日本で最初の女子大学である日本女子大学校が創立されました。これは日本の女子教育史における画期的な出来事でした。
夫・信五郎が亡くなった後、浅子は事業を女婿の広岡恵三に託し、女性の地位向上に尽力するようになります。日本女子大学の設立は、浅子にとって単なる慈善事業ではなく、女性が自立し社会で活躍できる未来を切り開くための礎だったのです。
さらに晩年は、1911年に洗礼を受け日本キリスト教中央委員となり、遊郭の女性救出を始めとした社会活動を行うなど、女性の社会的地位向上のための活動を続けました。
「九転十起」──決して諦めない精神
浅子の人生を語る上で欠かせないのが、彼女の座右の銘「九転十起」です。
「七転び八起き」を超えてなお、諦めないという意味が込められたこの言葉は、彼女の何があっても立ち向かい続ける生き方を象徴しています。浅子は「九転十起生(きゅうてんじっきせい)」というペンネームでも文章を寄稿していました。
「九度転んでも十度起き上がれば、前の九度の転倒は消滅して、最後の勝利を得ることができる」──これが浅子の信念でした。
彼女の人生を振り返れば、まさにこの言葉通りでした。明治維新による加島屋の経営危機、炭鉱事業の失敗、落盤事故、大病など、数々の困難が襲いかかりました。しかし浅子は一度も諦めず、毎回立ち上がり、最終的には大きな成功を手にしたのです。
「思い通りになるから頑張るのではなく、思い通りにならない世の中だからこそ、自分の理想を決して諦めず、九回転んでも十回起き上がる」──これが浅子の「九転十起」に込めた想いだったのです。
浅子は若い女性たちに向けて、こんな言葉を残しています。「絶えず自ら教育するということは、努めなければどんなに閑な豊かな境遇でもできないもので、十分の覚悟を以て努めさえすれば、またどういう境遇にあっても出来るものです」
この精神は、現代を生きる私たちにも大きな示唆を与えてくれます。
おわりに──現代に受け継がれる遺産
1919年、広岡浅子は腎臓炎のため東京で逝去しました。彼女は「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と言い残したそうです。
浅子が残した遺産は、企業や学校だけではありません。女性も社会で活躍できるという道を切り開き、「九転十起」という不屈の精神を示したことこそが、最大の遺産といえるでしょう。
彼女が設立に関わった大同生命は今も続き、日本女子大学は女性教育の中心的な存在であり続けています。そして何より、何度でも立ち上がるという彼女の精神は、多くの人々に勇気を与え続けています。
2015年にはNHK連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルとなり、改めてその生涯が注目を集めました。明治という激動の時代を「九転十起」の精神で駆け抜けた広岡浅子の物語は、時代を超えて私たちの心を揺さぶり、挑戦することの大切さを教えてくれるのです。


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