インバウンド市場に突如訪れた危機
2025年11月14日、中国政府が突如として発表した日本への渡航自粛要請。高市首相の台湾有事に関する国会答弁への反発が引き金となり、日本の観光業界に大きな波紋が広がっている。中国人観光客は約2兆円規模の需要を生み出す日本経済にとって最大級のインバウンド市場だ。この渡航自粛は、長年中国人観光客を歓迎してきた宿泊施設に深刻な打撃を与えている。
愛知県・蒲郡ホテルの苦悩
愛知県蒲郡市に位置する創業45年の「蒲郡ホテル」。114室を持つこの老舗ホテルでは、宿泊客の5~6割が中国人観光客という。竹内社長は長年、中国の旅行会社を何度も訪れて営業を続け、上海万博ではステージに上がって自ら蒲郡の魅力をアピールするなど、地道な努力を重ねてきた。
館内には中国語の案内表示が目立ち、中国からのゲストを心から歓迎してきた姿勢が伝わる。東京と大阪の中間に位置する蒲郡市は「ゴールデンルート」上にあり、移動の途中で立ち寄りやすい立地が功を奏して、インバウンド需要が着実に伸びてきた。
しかし、今回の渡航自粛要請により状況は一変した。1000人以上の予約キャンセルが発生し、竹内社長は「キャンセル料を免除してほしいと言われているが、それは困る」と苦しい胸の内を明かす。それでも、「中国の方もマナーの違いがあるだけで、人柄や人間性はすごく良い」と語り、一日も早い関係改善を願っている。
大阪のホテルでも5~7割がキャンセル
影響は全国に及んでいる。大阪観光局が府内20のホテルを調査したところ、中国人宿泊客の予約キャンセル率は5~7割に達していることが判明した。藤田観光が運営するホテル椿山荘東京では、宿泊者の2割超が中国・香港からの旅行客だが、小規模グループのキャンセルが既に発生している。帝国ホテルでは、企業主催の宴会や宿泊の延期・中止の問い合わせが相次いでいるという。
中部国際空港近くの宿泊施設でも、12月末までのツアー予定が白紙となるなど、年末の繁忙期を前に深刻な事態となっている。
経済損失は1.8兆円規模に
この影響は数字にも表れている。2025年1~9月のインバウンド消費額約6.9兆円のうち、中国人の消費は最多の1.6兆円で全体の23%を占める。香港を含めると2兆円を超える巨大市場だ。
経済アナリストの試算によると、2012年の尖閣問題時と同様に訪日中国人が前年比約25%減少した場合、年間の経済損失は約1.8兆円に達し、GDPを0.29%押し下げるという。観光業だけでなく、百貨店、飲食店、交通機関など幅広い産業への波及効果を考えると、日本経済全体への打撃は計り知れない。
しかし冷静な見方も
一方で、業界関係者の間では比較的冷静な受け止め方もある。重要なのは、現在中国人観光客の約9割が個人旅行であり、キャンセルが相次いでいるのは主に団体旅行だという点だ。
2015年には団体旅行の比率が42.9%だったが、2025年4~6月期には11%まで低下している。団体旅行のキャンセルは確かにインパクトがあるが、個人旅行者の動向こそが市場全体を左右する。実際、中国の大手航空会社が提供している無料キャンセルの対象は12月31日までの旅程に限られており、個人で航空券を購入した旅行者の多くは、高額なキャンセル費用を負担してまで予定を変更できない状況にある。
また、訪日外国人全体における中国人の割合は、コロナ前の約30%から2025年には約24%へと低下している。韓国、台湾、アメリカ、オーストラリアなど他国からの観光客が増加しており、中国市場への依存度は相対的に下がっている。
過去の経験から学ぶ回復のシナリオ
過去にも似た事態は起きている。2012年の尖閣諸島国有化問題では、中国政府が渡航自粛を呼びかけ、訪日中国人数は最大30%減少した。しかし、当時は政府による観光制限の正式な発令はなく、約1年で急速に回復した。
一方、2017年に韓国がTHAAD(高高度防衛ミサイル)を配備した際、中国政府は韓国への団体旅行を禁止する制裁措置を発動。訪韓中国人数は1年で半減し、制裁解除も段階的に留まり、影響は長期化した。
今回のケースがどちらのシナリオをたどるかは、中国政府の姿勢次第だ。現地旅行会社へのヒアリングでは「春節(2026年1月末)までかかることを覚悟している」という声も出始めている。高市首相の発言撤回を求める声もあり、中国側が強硬姿勢を崩さない可能性もある。
もし現在の「渡航自粛」が「渡航制限措置」にエスカレートすれば、韓国のケースのように3年間で2.3兆円規模の損失が生じると試算されている。
変化する中国人観光客のプロファイル
状況を複雑にしているのは、中国人観光客の性質が大きく変化している点だ。かつての「爆買い」の時代は終わり、富裕層の個人旅行者が増加している。彼らは高級ブランド品や文化体験を求め、北海道でのスキーや地方の小都市訪問など、多様な旅行スタイルを楽しんでいる。
30歳以下の83%は「ユニークな文化体験」を旅行先選定の最重要ポイントとしており、単なる買い物ツアーではなく、その土地ならではの経験を求めている。三越伊勢丹の広報担当者によれば、化粧品を大量購入する姿は減り、ブランドが提供する体験サービスを追求する傾向が強まっているという。
ホテル・旅館が取るべき戦略
今回の危機は、中国市場への過度な依存のリスクを浮き彫りにした。蒲郡ホテルは後日、公式Xで「尖閣諸島問題や靖国神社参拝問題など、日中関係が緊張した局面で繰り返し起きており、想定の範囲内」「特定の国に依存せず、多様な市場からバランス良く集客する戦略を進めている」との見解を発表している。
今後の宿泊施設に求められるのは、リスク分散だ。東南アジア、欧米、国内客など複数の市場にアプローチし、一つの国の政治情勢に左右されない経営基盤を築くことが不可欠だ。同時に、中国人観光客が戻ってきた時に備えて、関係性を維持し続けることも重要である。
いつ中国人観光客は戻るのか
最も気になるのは、中国人観光客がいつ戻ってくるかという点だ。楽観的なシナリオでは、2026年の春節(1月末)前後に日中両政府が歩み寄り、状況が改善される可能性がある。春節は中国最大の旅行シーズンであり、両国にとって関係正常化の良いタイミングとなりうる。
中間的なシナリオでは、2~3ヶ月程度の自粛期間を経て、個人旅行者から徐々に回復していく展開が考えられる。個人旅行者は政府の方針よりも自身の判断を優先する傾向があり、航空券の価格や円安メリットを考慮して訪日を決める可能性が高い。
悲観的なシナリオでは、渡航制限が長期化し、韓国のケースのように数年単位で影響が続く事態も想定される。特に、中国国内メディアが反日報道を強化し、SNSで情報が拡散されれば、世論が硬化して個人旅行者まで減少する恐れがある。
現地では既に、日本映画の上映延期など文化面への波及も見られており、予断を許さない状況だ。
観光業界が今すべきこと
この危機を乗り越えるため、観光業界が今すべきことは明確だ。
第一に、市場の多角化を急ぐこと。東南アジア、欧米、オーストラリアなど成長市場へのプロモーションを強化し、特定国への依存度を下げる必要がある。
第二に、国内旅行需要の喚起。円安で海外旅行が高騰する中、国内旅行の魅力を再発見してもらう施策が重要だ。
第三に、中国市場との関係維持。今は難しい時期だが、長期的な視点で中国人観光客との絆を保ち続けることが将来の回復につながる。竹内社長の「中国の方の人柄や人間性はすごく良い。世界平和でやっていただきたい」という言葉は、この姿勢を象徴している。
結び─共存への道
日中間の政治的緊張が観光業界に落とす影を、私たちは今まざまざと見ている。しかし、政治と民間交流は本来別物だ。蒲郡ホテルの館内に掲げられた中国語の案内表示、竹内社長が上海万博のステージで行ったプレゼンテーション、そして何度も中国を訪れて築いた信頼関係─これらは決して無駄にはならない。
中国人観光客が戻る日は必ず来る。その時まで、日本の観光業界は多様な市場への対応力を高めながら、同時に中国との架け橋であり続ける使命を持っている。2兆円市場の復活は、両国の対話と相互理解があってこそ実現するのだから。


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