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福留孝介がPL学園を選んだ理由とは?中学時代の進路決定秘話と立浪和義への憧れ

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鹿児島から大阪へ、一人の少年が決断した運命の選択

日米通算2450安打を記録し、2022年に現役を引退した福留孝介。彼の輝かしいキャリアの原点には、中学卒業時の大胆な決断があった。鹿児島県から遠く離れた大阪のPL学園へ単身野球留学を決めた15歳の少年。その選択には、一人のスター選手への憧れと、プロへの強い意志が秘められていた。

立浪和義との運命的な出会いが全てを変えた

福留孝介の野球人生を大きく変えたのは、小学4年生の春の出来事だった。鹿児島県大崎町に住んでいた福留少年は、父親に連れられて宮崎県串間市の串間市営球場で行われていた中日ドラゴンズの春季キャンプを見学に訪れた。

1988年春、ドラフト1位で中日に入団したばかりの立浪和義が、そこにいた。小柄ながらも広大な甲子園球場で本塁打を放つ姿に、少年は衝撃を受けた。「野球は体の大きさがすべてではない」―その瞬間、福留の心に新たな可能性が芽生えた。

練習を最後まで見学した少年に、立浪はバットとサインをプレゼントした。この出来事が、福留孝介の人生を決定づけることになる。「立浪和義と同じPL学園高校、そして中日ドラゴンズでプレーしたい」という夢が、彼の心に深く刻まれたのだ。

全国制覇を成し遂げた中学時代の実力

中学時代、福留はプロ野球選手になるという明確な目標を掲げ、中学校の軟式野球部ではなく硬式球を使用するボーイズリーグの「鹿屋ビッグベアーズ」に入団した。卒業文集には「将来の夢はプロ野球選手」と記すほど、その意志は固かった。

そして中学2年生の時、全国大会に出場してホームランを打つ活躍を見せ、チームを全国制覇に導いた。この大会でのパフォーマンスが、複数の名門高校の目に留まることになる。

11校からの誘いを断り、PL学園を選んだ真の理由

福留の才能は各地の強豪校に知れ渡り、高校進学時には地元の有力校を含む11校もの名門校から勧誘を受けた。地元に残れば家族の近くで野球を続けられる。しかし、福留が下した決断は違った。

「立浪さんが出られた高校、というのももちろん大きかったですが、それだけではなく、本気でプロを目指すなら、大阪へ行って活躍したほうが、人の目に留まる回数も印象も違うだろうと思って、進学を決めたんです」

福留本人が後に語ったこの言葉には、憧れを超えた戦略的な思考があった。プロになるためには、甲子園という最高の舞台で結果を出し、スカウトの目に留まる必要がある。PL学園という名門校なら、その可能性が最も高いと15歳の少年は判断したのだ。

深夜0時の電話―両親も知らなかった衝撃の決断方法

進路決定の瞬間は、今でも福留の記憶に鮮明に残っている。

「深夜0時くらいに、両親の前で『ちょっと電話するね』と言ってPLの先生に電話をかけて、『お世話になります。今から両親に代わります』と話をして――その時まで両親は私がPLに行くことは知らなかったので、いわゆる実力行使でしたね」

両親への相談なしに進路を決めてしまうという大胆な行動。それは、自分の人生を自分で切り開くという強い意志の表れだった。当時としては前例の少ない鹿児島からの野球留学は、こうして実現した。

環境の変化と挑戦―PL学園での日々

大阪での寮生活が始まった。地元を離れ、周囲のレベルの高さに戸惑いながらも、福留は己が決めた道を一歩ずつ進んでいった。全国から集まった才能たちの中で、鹿児島から来た少年は自分の居場所を作らなければならなかった。

しかし、福留は期待に応えた。1年生の秋からPL学園の4番を任されるという快挙を成し遂げる。これは清原和博以来の出来事で、「清原二世」「立浪二世」と騒がれることになる。

3年生の夏には高校No.1スラッガーとして大阪府予選で8試合7本塁打という大会記録を樹立。甲子園本大会でも初戦で満塁弾を含む2打席連続本塁打を放ち、全国にその名を轟かせた。そして1995年のドラフト会議では、高校生として過去最多となる7球団からの1位指名を受けることになる。

立浪和義への憧れが実現した瞬間

高校卒業後、福留は7球団競合の末に交渉権を獲得した近鉄バファローズの入団を拒否し、日本生命を経て1998年に念願の中日ドラゴンズを逆指名した。小学4年生の時に憧れた立浪和義と、ついに同じユニフォームを着ることになったのだ。

立浪の応援歌を流用した福留の応援歌は、1999年の入団から2007年の退団まで使用された。2006年には「PL学園の先輩・立浪に代わる『ミスタードラゴンズ』に成長した」とまで評されるようになる。少年時代の夢は、こうして現実のものとなった。

決断が人生を切り開く―福留孝介が示した選択の重要性

福留孝介の野球人生は、まさに「決断の連続」だった。15歳で両親の元を離れPL学園へ進学した決断、7球団競合を蹴って社会人野球を経由した決断、そしてメジャーリーグへ挑戦した決断。

その原点にあったのが、中学卒業時のPL学園進学という選択だった。地元の有力校からの誘いを断り、憧れの選手がいた高校を選ぶ。プロになるための最適な環境を自ら選び取る。この決断力こそが、後の日米通算2450安打、327本塁打という偉業につながった。

「本気でプロを目指すなら、大阪へ行って活躍したほうが、人の目に留まる回数も印象も違う」という15歳の判断は、まさに正しかった。

名門PL学園の誇りを胸に

2022年、45歳で現役を引退した福留は、オリックスの中川圭太とともにNPBに残る最後のPL学園出身選手だった。活動休止している母校について、福留はこう語っている。

「PL学園と言って分かる方もだんだん、少なくなっている。やっぱりPL学園の野球部というのを胸張って言えるような、そうやってやっていけたらいいなとは思います」

甲子園を沸かせ、ドラフト会議で7球団競合という栄誉を受けた福留孝介。その輝かしいキャリアは、小学4年生で出会った立浪和義への憧れと、中学卒業時に下した大胆な決断から始まった。

自分の人生を自分で決める。その勇気が、一人の少年を球界を代表する名選手へと成長させたのである。

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