はじめに:「無実」でも自由を奪われる現実
無実であっても長期間拘束され、人生を破壊される――これは遠い国の話ではなく、2020年から2021年にかけて日本で実際に起きた大川原化工機冤罪事件の真実です。
噴霧乾燥器メーカーの経営陣3名が「生物兵器転用可能な機械を無許可輸出した」という容疑で逮捕されましたが、最終的に検察が起訴を取り消すという異例の展開となりました。
この事件は、日本の人質司法――起訴前後に長期間身柄拘束を続ける刑事司法制度の深刻な問題点を浮き彫りにしました。
事件の概要:突然の逮捕劇
横浜市に本社を置く従業員約90名の中小企業、大川原化工機株式会社。平和貢献を企業理念に掲げ、真面目に事業を続けてきた同社に、ある日突然警視庁公安部が踏み込みました。
2020年3月11日、代表取締役・大川原正明氏、常務取締役・島田順司氏、相談役・相嶋静夫氏の3名が外国為替及び外国貿易法違反の容疑で逮捕されました。容疑は「生物兵器製造に転用可能な噴霧乾燥機を経済産業省の許可なく中国に輸出した」というものでした。
しかし、会社側は当初から「製品は規制対象外」と主張していました。経産省の省令では「定置した状態で内部の滅菌・殺菌ができる」装置が規制対象とされていましたが、大川原化工機の製品にはこの機能がありませんでした。
ところが警視庁公安部は「ヒーターを空焚きして温度を上げれば、一部の菌を殺すことは可能ではないか」という独自解釈を展開。無理筋の捜査を強行したのです。
11ヶ月に及ぶ身体拘束:「人質司法」の実態
保釈請求は何度も却下された
逮捕された3名は一貫して無罪を主張しましたが、保釈は容易には認められませんでした。
弁護人は起訴後すぐに保釈請求を行いましたが、検察官は「黙秘をしている現状では罪証隠滅の危険性が高い」「会社が組織ぐるみで口裏合わせをしている可能性が極めて高い」などと主張し、強硬に反対。東京地方裁判所もこれを受けて保釈請求を却下しました。
この構図は日本の刑事司法における典型的な人質司法の姿です。「自白しなければ出さない」という無言の圧力が被疑者・被告人にかけられ、無実であっても長期間拘束される――これが日本の現実なのです。
大川原社長と島田元取締役:11ヶ月の拘置所生活
大川原社長と島田元取締役は、2020年3月から2021年2月まで約11ヶ月間、東京拘置所に勾留され続けました。
弁護側は計6回にわたって保釈請求を行いましたが、そのたびに検察官が反対。ようやく保釈が認められたのは2021年2月5日、起訴から約11ヶ月が経過した後でした。その時点で、初公判すらまだ開かれていませんでした。
11ヶ月――その間、2人は家族と離れ、会社経営から引き離され、自由を完全に奪われていたのです。中小企業にとって、経営トップが1年近く不在となる影響は計り知れません。
実際、大川原化工機は一時倒産の危機に瀕しました。
最も深刻な悲劇:相嶋静夫氏の死
拘置所内で進行した胃がん
しかし、この事件で最も許し難いのは、相嶋静夫氏(当時72歳)の死です。
相嶋氏は拘置所内で体調を崩し、2020年9月15日には東京拘置所内で輸血処置を受けるほど状態が悪化しました。同月29日、弁護側は「緊急の治療の必要性」を理由に保釈請求を行いましたが、検察官は「罪証隠滅のおそれがある」として反対。裁判所も保釈請求を却下しました。
10月7日、拘置所内の医師による診察で、相嶋氏は胃に悪性腫瘍があると診断されました。10月16日、勾留執行停止が認められ、大学病院を受診したところ、進行胃がんとの診断が下されました。
8回の保釈請求、すべて却下
ここからが信じがたい展開です。
がんと診断された相嶋氏でしたが、受診した大学病院は「勾留執行停止状態での入院・手術」を受け入れませんでした。弁護側は改めて保釈請求を行いましたが、検察官はなおも罪証隠滅のおそれがあると主張し、保釈に反対したのです。そして裁判所も、がん患者の保釈請求を却下しました。
相嶋氏側は、勾留執行停止状態でも入院・手術を受け入れてくれる医療機関を必死に探し、11月5日にようやく入院にこぎつけました。しかし時すでに遅く、適切な治療を受けるタイミングを逃していました。
弁護側は計8回にわたって保釈請求を行いましたが、一度も認められることなく、相嶋氏は2021年2月7日、入院先の病院で72歳の生涯を閉じました。
大川原社長と島田元取締役が約11ヶ月ぶりに釈放されたのが2月5日。相嶋氏の死は、その2日後のことでした。
異例の起訴取り消し:「犯罪の疑義」
2021年7月30日、初公判を目前に控えたタイミングで、東京地検は突如起訴を取り消しました。
検察が公表した理由は「犯罪に当たるか疑義が生じた」というものでした。つまり、そもそも犯罪が成立しない可能性が高い事案だったのです。警察・検察の「独自解釈」による強引な捜査と起訴が、3名の人生を破壊し、1名の命を奪ったのです。
この異例の起訴取り消しは、検察が自らの誤りを認めた形となりましたが、失われた時間と命は決して戻りません。
国家賠償訴訟:違法捜査が認定される
一審:東京地裁判決
大川原社長ら原告は、逮捕・起訴は違法として国と東京都を相手取り国家賠償訴訟を提起しました。
2023年12月27日、東京地裁(桃崎剛裁判長)は、警視庁公安部の警察官による逮捕および取り調べ、ならびに検察官による勾留請求および公訴提起が違法であると認定。国と都に対して約1億6200万円の賠償を命じました。
判決では、警視庁公安部が証拠を捏造し、不利な証拠を無視したことが指摘されました。取り調べでは「偽計的手法」が用いられ、供述調書が不当に作成されたことも明らかになりました。
控訴審:東京高裁で「全面勝訴」
国と都は一審判決を不服として控訴しましたが、2025年5月28日の東京高裁判決でも、原告側の主張が認められました。そして2025年6月、国と都は上告を断念し、違法捜査の判決が確定しました。
この確定に至るまでには、大川原社長らによる4万筆を超える署名活動などの努力がありました。
検察・警察の「謝罪」:名前すら間違える不誠実さ
判決確定を受け、2025年6月20日、警視庁と検察の幹部が大川原化工機本社を訪れて謝罪しました。
しかし、その場で警視庁の鎌田徹郎副総監は、被害者の名前を「ヤマモト」と誤るという信じがたいミスを犯しました。該当する関係者に「ヤマモト」という人物は存在しません。これは、当局が事件をどれほど軽視しているかを象徴する出来事でした。
さらに、検察は最高検が検証結果を公表した記者会見で、写真撮影や録音を禁止。警視庁が警視総監自らカメラの前で謝罪したのとは対照的に、検察は「顔を見せない謝罪」に終始しました。
検証結果:処分なしという無責任
2025年8月7日、警視庁と最高検はそれぞれ検証結果を公表しました。
警視庁は19人に処分(退職者には処分相当)を科しましたが、検察は起訴した検事や保釈に反対し続けた検事に対して何の処分も行いませんでした。
最高検の検証結果では「消極証拠の検討が不十分だった」「保釈反対は結果として不適切だった」と認めましたが、個人の責任を問う姿勢は見られませんでした。相嶋氏の死に対しては「深く反省」「心よりお詫び申し上げる」との言葉がありましたが、具体的な責任追及は行われていません。
大川原社長は記者会見で「個人個人の責任に深く突っ込んでいない。期待した内容ではなかった」と失望を表明しました。
人質司法がもたらすもの
この事件が明らかにしたのは、日本の刑事司法制度における人質司法の深刻な問題です。
- 保釈が認められにくい:日本では起訴後も長期間身柄拘束が続くことが常態化しています
- 黙秘権の行使が不利に働く:黙秘すると「罪証隠滅のおそれ」として保釈が却下されやすくなります
- 健康リスクも考慮されない:相嶋氏のケースのように、深刻な病気でも保釈が認められないことがあります
- 無実でも長期拘束:犯罪が成立しない事案でも、捜査・起訴段階で長期間拘束される可能性があります
日本の刑事司法は「推定無罪の原則」を掲げていますが、実態は「起訴されたら有罪」「自白しなければ出さない」という運用がなされているのです。
中小企業が直面するリスク
大川原化工機事件は、中小企業が国家権力によって容易に破壊されうることも示しました。
警視庁公安部は内部で「100人ぐらいの中小企業を狙うんだ」という方針を掲げていたことが明らかになっています。大川原化工機はまさにその条件に合致していました。
経営者が逮捕され、1年近く不在となれば、中小企業の経営は致命的なダメージを受けます。実際、大川原化工機は倒産の危機に瀕し、取引先や従業員にも深刻な影響が及びました。数十回の取り調べを受けた女性社員はうつ病を発症しました。
経済安全保障が重視される現在、輸出管理に関わる企業は同様のリスクにさらされています。法令の「曖昧さ」を当局が独自に解釈し、強引に立件するという構図は今後も起こりうるのです。
二度と繰り返してはならない
大川原化工機冤罪事件は、日本の刑事司法制度の構造的欠陥を白日の下にさらしました。
無実の3名が逮捕され、約11ヶ月拘束され、1名が亡くなり、起訴は取り消された。
この事実の重さを、私たちは決して忘れてはなりません。相嶋静夫氏の命を奪ったのは胃がんだけではありません。保釈を認めず、適切な医療を受ける機会を奪った検察と裁判所の判断も、その一因だったのです。
刑事司法改革は待ったなしです。人質司法の撤廃、保釈要件の緩和、取り調べの完全可視化、検察の裁量権への歯止め――これらの改革なくして、第二、第三の大川原化工機事件は防げないでしょう。
そして何より、私たち市民一人ひとりがこの問題に関心を持ち続けることが重要です。「自分には関係ない」と思っていても、ある日突然、無実の罪で自由を奪われる可能性はゼロではないのですから。


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