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史上最年少15歳でプロ野球指名された辻本賢人|阪神からメッツへ、そして翻訳家への転身

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はじめに|伝説の15歳プロ野球選手

2004年11月17日、プロ野球界に衝撃が走った。阪神タイガースがドラフト8巡目で指名したのは、わずか15歳の少年・辻󠄀本賢人だった。ダルビッシュ有や一場靖弘といった注目選手が並ぶなか、無名の15歳の少年が指名されたのだ。

史上最年少でのドラフト指名という記録は、スポーツニュースだけでなくワイドショーでも大きく取り上げられた。181センチ、75キロという堂々とした体格と、142キロを投げる驚異の球速。だが、その幼い表情は確かに15歳の少年そのものだった。

なぜ15歳の少年がプロから指名されたのか

アメリカンフットボールが生んだ奇跡の投手

辻󠄀本賢人の野球人生は、決して順風満帆なものではなかった。兵庫県芦屋市で1989年1月6日に生まれた彼は、小学2年生で野球を始め、4年生からはボーイズリーグ「兵庫尼崎」に所属。あのダルビッシュ有とも投げ合い、全国大会で好成績を収めるなど、幼少期から才能を開花させていた。

ところが、中学1年時に転機が訪れる。厳しい練習に耐えかねて野球を断念し、単身アメリカ・ネブラスカ州に留学。そこでアメリカンフットボールに転向したのだ。

しかし、久しぶりに野球をした際、驚くべきことが起こった。アメリカンフットボールで鍛えた体は、球速を驚異的に向上させていたのである。この発見が、辻󠄀本を再び野球の世界へと導いた。

15歳指名を可能にした父親の決断

2004年8月、カリフォルニア州のマター・デイ高等学校で日本の義務教育に当たる9年生課程を修了した辻󠄀本。日本の高校への編入も考え、10月から休学して帰国していた。

当時、野球協約には留学生に関する明確な規定がなく、複数の球団から照会があり、ドラフト会議の2日前にようやく「ドラフト対象選手」と認められた。

こうして、契約金1000万円、年俸440万円という条件で、ドラフト史上最年少のプロ野球選手が誕生した。

阪神時代|苦難の5年間

プロの壁と故障に苦しむ日々

2005年、16歳の辻󠄀本はウエスタン・リーグで5試合に登板したが、防御率11.37とプロの厳しさを痛感させられた。2006年は身体作りに専念し、実戦登板の機会はなかった。

同学年の選手が高卒でプロ入りする2007年は9試合に登板し、防御率3.24とやや持ち直した。2008年は11試合に登板して防御率3.65。しかし、この年のオフに育成選手契約へと降格してしまう。

2009年、シーズン前に腰椎疲労骨折が発覚し、登板機会を得られず、ついに10月1日に戦力外通告を受けた。20歳という若さで、一度も一軍のマウンドに立つことなく、阪神での野球人生は幕を閉じた。

早すぎたプロ入りの影響

15歳でプロ入りしたことで、辻󠄀本は本来なら高校3年間で積むべき成長の機会を失った。周りはすべて大人のプロ選手。同年代と競い合いながら成長する機会がなかったことが、彼の成長を妨げたという見方もある。

しかし、本人は後に「阪神に入ってよかった」と語っている。先輩たちからの愛を感じ、多くのことを学んだ5年間だったという。

アメリカ再挑戦|夢を諦めなかった若者

独立リーグでの復活

20歳で現役引退の危機に直面した辻󠄀本だが、夢を諦めなかった。2010年2月、元阪神のエース・藪恵壹の勧めでアメリカに渡り、アリゾナでトレーニングを積んだ。

投球フォームを見直し、腕の位置をサイドスロー気味に下げたことで、球速が大きく向上。4月、独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのトライアウトでは、阪神時代を超える146キロを記録した。

ハワイのマウイ・イカイカからドラフト1位指名を受け、32試合に登板。3勝2敗2セーブ、防御率2.88という成績を残し、球速は151キロまで到達した。勝ち試合で起用されるようになり、確実に復活の手応えを掴んでいた。

ニューヨーク・メッツとマイナー契約

2011年1月、フロリダでタンパベイ・レイズのトライアウトに参加し、3者連続三振を奪う投球を披露。レイズは不合格だったが、スカウトのロブ・デューシーから「俺が絶対にどこかに入れてやる」と言われた。

その言葉通り、2月7日にニューヨーク・メッツからマイナー契約のオファーが届き、3月3日に正式契約。ついにMLB傘下のチームに所属する夢が叶った。

しかし、メッツのマイナー時代に右肘を故障し、手術を受けることになる。2013年5月、メッツを自由契約となり、辻󠄀本の野球人生は24歳で完全に幕を閉じた。

2025年現在|翻訳家としての新たな人生

英語力を活かしたセカンドキャリア

野球から離れた辻󠄀本は、翻訳家という新たな道を選んだ。中学時代からの海外生活で培った英語力、そして母方の祖母がドイツ人というクォーターとしてのグローバルな感性が活きている。

2024年の取材では、35歳になった辻󠄀本が主に日本の雑誌記事や書籍を英訳していることが明らかになった。来日する外国人のアテンドやコーディネート業務も手がけている。

海外とのやり取りが多いため、毎朝4時に起床する生活を送っている。子どもを学校に送るのは彼の役目で、夜は8時か9時に子どもと一緒に就寝するという規則正しい生活だ。「子どもと過ごす時間を大切にしたくて」と語る辻󠄀本は、家族との時間を何よりも大切にしている。

野球を知らない人々との新しい世界

現在、仕事関係者の9割は彼が元プロ野球選手だったことを知らないという。長身で長髪、あごひげを蓄えた彫りの深い風貌は、芸術家や音楽家を思わせる。20年前に日本中の注目を集めた野球少年の面影を見つける人は、ほとんどいない。

「阪神を戦力外になったあと、いろんな人に助けてもらいました」と感謝する辻󠄀本。野球人生は決して順風満帆ではなかったが、その経験すべてが現在の彼を形作っている。

15歳の挑戦が残したもの

史上最年少15歳でドラフト指名された辻󠄀本賢人の野球人生は、天才少年の挫折と再起の記録でもある。阪神での5年間、アメリカでの挑戦、そして翻訳家への転身。

「プロ入りをまったく後悔していない」と語る彼の言葉には、すべての経験を糧にして前を向く強さがある。15歳でプロの世界に飛び込んだ勇気、20歳で挫折を味わった経験、そして新たな道を切り開いた行動力。

辻󠄀本賢人という人物は、野球選手としての記録以上に、人生の選択と挑戦の大切さを私たちに教えてくれる存在なのかもしれない。2025年、36歳となった彼は、野球とは全く異なるフィールドで、充実した日々を送っている。


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