日本を震撼させた検察スキャンダル
2009年6月、厚生労働省の女性局長が突然逮捕される衝撃的な事件が発生した。しかし、これは冤罪だった。さらに驚くべきことに、検察が証拠を改ざんしてまで無実の人間を罪に陥れようとしていたことが明らかになる。
この「郵便不正事件」は、現職の検察官3人が逮捕されるという前代未聞の展開となり、日本の刑事司法の根幹を揺るがした。
事件の概要:100億円の郵便料金不正
事件の本質は、自称障害者団体「凛の会」が障害者向けの郵便料金割引制度を悪用し、約100億円規模の不正減免を受けていたというものだった。障害者団体として認定されれば、郵便料金が大幅に安くなる。この制度を悪用するため、実体のない偽の障害者団体が厚生労働省から証明書を取得していたのである。
実際に不正を行ったのは、厚生労働省の元係長が2004年6月に単独で「凛の会」を障害者団体と認める証明書を偽造したことだった。これは係長の判断ミスによる個人的な問題であり、日常業務に忙殺され団体を調査もせずに証明書を発行してしまったというのが真相だった。
なぜ村木厚子氏が狙われたのか
当時、障害保健福祉部企画課長だった村木厚子氏は、なぜ検察のターゲットとなったのか。
検察は、国会議員、厚労省幹部、偽の障害者団体の結託による大型犯罪に仕立てるために壮大な虚構ストーリーをねつ造したのである。検察は「これだけ大きな金額の不正を、一係長が単独でできるわけがない」と、政治家が絡んだ組織的な犯罪の図式を描いてしまった。
検察側は、村木氏が2004年当時準備していた「障害者自立支援法案」を国会ですんなり通したいと思っていたことが背景にあるというストーリーを描いており、自称障害者団体から口利きを頼まれた国会議員からの依頼で、その議員に気を遣って証明書発行を命じたというものだった。
つまり、検察は「大物政治家を絡めた組織的犯罪」という派手なシナリオを求めており、そのストーリーに合う人物として、当時課長という立場にあった村木氏が選ばれたのである。
証拠改ざんの衝撃:検察の暴走
検察の捜査手法は極めて問題が多かった。担当検事は逮捕直後、「私の仕事はあなたの供述を変えさせることです」と言い放ったという。最初から有罪にするための取り調べだったのである。
さらに深刻なのは証拠の改ざんだった。大阪地検特捜部が押収したフロッピーディスク内の文書データの最終更新日時が改ざんされており、もともと2004年6月1日だった更新日時が6月8日に変更されていた。検察側は公判で、村木元局長が2004年6月上旬、部下に偽証明書発行を指示したと主張しており、更新日時はこの主張と矛盾しないよう変更されていた。
主任検事の前田恒彦容疑者は、証拠隠滅容疑で逮捕され、元特捜部長の大坪弘道と元副部長の佐賀元明も、主任検事による故意の証拠改ざんを知りながらこれを隠したとして犯人隠避容疑で逮捕された。現職の検察官、しかも特捜部のトップ層が逮捕されるという前代未聞の事態となったのである。
公判で明らかになった検察主張の矛盾
裁判が始まると、検察の描いたストーリーは次々と崩壊していった。
供述の不自然な一致と裁判での証言変更
係長は取調べにおいて、自分が独断で証明書を作成したと言っても検察官は話を聞いてくれず、「関係者はこういうふうに言ってるよ」「周りの人の意見を聞いて総合的に判断するのが妥当じゃないか」などと言われ、検察官が作文したものが、自分が語った形で調書になって、直してもらえなかったと公判で証言した。
厚生労働省の関係職員で取り調べを受けたのは10人で、皆、国家公務員としてきちんとした仕事をしており、それにもかかわらず、5人が「村木が不正に関与した」との虚偽の調書にサインをしていた。しかし、裁判では、元部下の係長が証人尋問で、村木氏に命じられたとする自分の供述調書は「でっち上げ」で、自分の独断でやったことだと証言し、その他の証人のほとんど全てが供述調書の内容を覆した。
フロッピーディスクが示した真実
大阪拘置所で、検察から弁護側に開示された膨大な証拠資料を読み続けた村木氏は、一通の捜査報告書を見つけ、そこに記載されていた証明書作成時のフロッピーディスクの作成日時が、検察の筋書きと矛盾することに気づいた。検察はこのフロッピーディスクの存在を隠すつもりだったが、うっかり報告書を開示してしまったのである。
保釈を認めない「人質司法」
村木氏の弁護人は保釈を請求したが、検察官は「罪証を隠滅する」「逃亡する」と主張して保釈に反対し、裁判官も最初は保釈請求を却下した。10月7日に保釈が許可されたが、検察官が準抗告を申し立て、保釈許可が取り消された。結局、逮捕から164日後の11月24日、村木氏はようやく釈放された。保釈保証金額は1500万円だった。
無実を主張する被告人を長期間拘束し続けることで、精神的に追い詰めて自白を引き出そうとする。これが日本の「人質司法」の実態である。
無罪判決と検察の崩壊
2010年9月10日、大阪地方裁判所は村木氏に無罪判決を言い渡した。その11日後の9月21日、朝日新聞が証拠改ざんの疑いをスクープし、同日、最高検は主任検事を逮捕した。大阪地方検察庁は上訴権を放棄し、村木厚子氏の無罪判決が確定した。
この事件の影響は大きく、検事総長が辞職に追い込まれるなど、検察組織全体が揺らいだ。
検察組織の構造的問題
なぜこのような暴走が起きたのか。村木氏自身が指摘する検察の組織的問題は示唆に富んでいる。
検察官は、本来なら真実を明らかにすることが評価されるべきなのに、被告人を有罪にするという組織特有の軸へと置き換わっていた。また、ボスが方向性を決めたら部下は従わなければいけないという上下関係の厳しいカルチャーが、検察官一人ひとりの自律的な判断力を奪い、「犯罪捜査のプロ」である検察組織に間違いは許されないというプレッシャーも、不正を誘引した。
公務員試験の受験資格に年齢制限があり、転職者が入りづらいために同質性が高まりやすく、人事制度に年功色が残り、定年まで勤める人も多いため、中高年層は保守化して声を上げようとしなくなるという構造的問題もある。
興味深いことに、無罪確定後、厚労省に職場復帰して検事総長に面会すると、開口一番お礼を言われ、「組織に無理が掛かっているのはわかっていても、内部からは変えられなかった」と、変わるきっかけを作ったことに感謝されたという。組織内部でも問題を認識していながら、改革できなかったのである。
この事件が残した教訓
郵便不正事件は、日本の刑事司法制度の問題点を浮き彫りにした。
取り調べの可視化の必要性:密室での取り調べが、強引な自白の強要を可能にしている。
証拠開示の徹底:検察が証拠を独占し、都合の良い証拠だけを出すことができる現状は改善されなければならない。
保釈制度の見直し:否認を続ける被告人を長期間拘束する「人質司法」は、憲法で保障された無罪推定の原則に反する。
組織文化の改革:有罪にすることを評価する文化ではなく、真実を明らかにすることを評価する文化への転換が必要である。
おわりに
村木厚子氏は無罪を勝ち取った後、厚生労働省に復職し、2013年には厚生労働事務次官に就任した。しかし、郵便不正事件の後も、大川原化工機に対する冤罪事件など、検察のあり方が問われる事件が相次いでいる。
この事件から学ぶべき最も重要な教訓は、どれほど強大な権力を持つ組織であっても、チェック機能がなければ暴走するということだ。そして、冤罪は決して他人事ではない。誰もが突然、理不尽な権力の犠牲者になりうるのである。
検察改革は今も道半ばである。二度と同じような冤罪事件を起こさないために、私たち一人ひとりが刑事司法のあり方に関心を持ち続けることが求められている。


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