高校球界の怪物が挑んだ大学受験
1973年、作新学院のエースとして甲子園を沸かせた江川卓。ノーヒットノーラン9回、完全試合2回という驚異的な記録を打ち立て、「怪物」と呼ばれた彼の進路は、日本中の注目を集めていました。
プロ野球・阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受けたものの、江川は大学進学を選択し、慶應義塾大学1校に絞って受験に臨みました。中学3年生の時に観た早慶戦で、六大学野球の舞台に憧れを抱いていた江川にとって、慶應大学は夢の場所だったのです。
NHKニュースが速報した「不合格」の衝撃
1974年2月から3月にかけて、江川は慶應義塾大学の法学部政治学科、文学部、商学部の3学部を受験しましたが、すべて不合格となりました。この結果はNHKなど各テレビ局の昼のニュースのトップで報じられるという異例の事態となり、一高校生の大学受験がこれほどの話題になることは極めて稀でした。
結局、江川は法政大学短期大学部(法政はすべての学部で入試が終了していたため)への入学を経て、法政大学法学部二部へ転籍し、のちに一部へ転部することになります。
江川本人が語る不合格の理由
江川自身は慶應大不合格について、「日本史で、過去の出題傾向から第二次世界大戦以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析しています。受験勉強では愛知県豊橋の合宿所に通い、1日10時間もの猛勉強に励んでいたといいますが、試験対策の読み違いが命取りとなったようです。
囁かれる「大学側の都合説」
しかし、江川の不合格には別の真相があったのではないかという憶測が、当時から絶えませんでした。
不正入学問題という時代背景
1970年代前半は、早稲田大学政経学部(1968年)、慶應大学商学部(1976年)など、私立大学の不正入学問題が相次いで明らかになった時代でした。このような時代背景から、世間やマスコミには疑心暗鬼の空気が漂っており、慶應1校に絞っていた江川を入学させると、江川と慶應大との間に裏取引があったのではと疑われる可能性がありました。
野球部セレクション加点の中止説
「例年なら野球部セレクションによる加点があるが、この年に限って加点が行われなかった」という説があります。実際、この年の慶應大学は、慶應進学を強く熱望した堀場秀孝、中尾孝義、植松精一などの有力選手も相次いで異例の不合格としています。
これは偶然の一致ではなく、大学側の明確な方針転換だったのではないかと考えられています。
慶應関係者の意味深な発言
江川が慶應に落ちたとき、慶應野球部あるOBは「さすがに慶應義塾だと思いましたね。野球ができるだけの子は入学させないわけですから」と語ったといいます。また、最後の慶應文学部発表当日、慶應某首脳部が教授会で「江川君はどうしました?」と聞き、「江川君は不合格でした」という返事を聞くと、笑顔で「やっぱりね!」と答えたという話も伝わっています。
これらのエピソードからは、江川を「あまり好まれていなかった」という空気が感じられます。
野球部と大学当局の確執説
一部では、野球部と大学当局の間での意見対立があったのではないかという推測もあります。野球部は江川の入学を強く望んでいたものの、大学当局側が「一般受験生の合格最低点に達していない者を特別扱いして入れることで、大学のブランドイメージが下がる」ことを恐れたのではないか、という見方です。
慶應義塾大学は伝統的に「学力」を重視する校風があり、いくら野球の才能があっても、学業面で一定の水準に達していなければ入学させないという姿勢を貫いたという解釈も成り立ちます。
歴史を変えた「不合格」の波紋
江川の慶應不合格は、その後の日本プロ野球史を大きく変える出来事となりました。
法政大学に進学した江川は、東京六大学野球で通算47勝、17完封という輝かしい記録を残し、大学4年時には巨人入団への執念から「空白の一日」事件を引き起こすことになります。
もし江川が慶應大学に合格していたら、「巨人、巨人」と執着するあの江川卓は存在しなかったかもしれません。六大学野球の歴史も、そして日本プロ野球の歴史も、まったく違ったものになっていた可能性があります。
法政大学での飛躍
皮肉なことに、江川にとって法政大学への進学は「災い転じて福となす」結果となりました。
法政大学では1年生の1974年秋から主力投手として東京六大学野球リーグ戦に登板し、植松精一、佃正樹、金光興二らの甲子園スターたちとともに「花の49年組」として神宮を沸かせました。江川は東京六大学野球で通算17完封という記録を樹立し、日本プロ野球史上でも屈指の名投手への道を歩み始めたのです。
今も語り継がれる野球界の都市伝説
江川卓の慶應大学不合格は、40年以上が経過した今でも野球ファンの間で語り継がれる都市伝説となっています。
真相は闇の中ですが、確かなことは一つあります。それは、この「不合格」が江川卓という投手の人生を決定づけ、日本プロ野球史に大きな影響を与えたということです。
もしあの時、慶應大学が江川卓の入学を許可していたら——。歴史に「もしも」はタブーですが、そんな想像を掻き立てるだけの重みを持つ出来事だったことは間違いありません。


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