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ティモンディ高岸宏行が済美高校に進学した理由とは?プロも注目した豪腕投手の野球人生

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はじめに:二つの故郷を持つ野球少年

お笑いコンビ「ティモンディ」として人気を博す高岸宏行。現在は明るいキャラクターと「やればできる!」の決め台詞で多くのファンを魅了しているが、その裏には壮絶な野球人生のドラマがあった。高岸の野球への情熱と、プロを目指した青春の日々を追う。

愛媛県の名門・済美高校への野球留学

二つの故郷と済美高校選択の背景

高岸宏行は1992年に愛媛県西条市で誕生したが、生後わずか1年で滋賀県へ転居。中学校卒業まで滋賀県で過ごしながらも、父方の実家がある愛媛県には春・夏・冬の長期休暇のたびに帰省していた。こうして高岸氏の中には「二つの故郷」という特別な感覚が育まれていった。

野球を愛する父の影響で、物心つく前からグローブと一緒に寝ていたという高岸。草むらで兄弟と野球に興じた幼少期の記憶が、彼の野球人生の原点となった。中学時代は滋賀県の軟式野球チーム「湖南クラブ」に所属し、着実に実力を磨いていく。

済美高校を選んだ理由について、高岸氏は「愛媛の高校から甲子園に出たい」という強い思いがあったと語っている。親戚たちが応援してくれていた愛媛で、地元代表として甲子園を目指す。それが彼の描いた夢だった。

「日本一厳しい練習」と評された済美高校野球部

2008年、高岸は済美高校に入学。相方の前田裕太も神奈川県からスポーツ推薦で入学しており、二人は野球部の寮で運命的な出会いを果たす。入寮初日の夜、最初に話をしたのがM-1グランプリで優勝したばかりのサンドウィッチマンの話題だったという。この時の会話が、後の芸人としての道を開く伏線になるとは、当時の二人は知る由もなかった。

済美高校野球部の練習は「日本一厳しい」と評されるほど過酷なものだった。早朝から夜11時過ぎまで続く猛練習の日々。寮生活は2畳ほどの個室で、食堂と風呂は共用。持ち込める娯楽も限られた環境の中、選手たちは野球に全てを捧げた。

入部当初は「あいさつの練習」に多くの時間が費やされたという。済美高校独特の「オヨヨドォ~ス!」という挨拶は、彼らのネタにも登場するほど印象的なものだった。この厳しい規律と礼儀作法の訓練が、後の芸能界での成功にもつながっていく。

プロ野球スカウトも注目した逸材

147キロの剛速球と20本のホームラン

高岸の才能は高校2年時に開花する。控え投手兼野手としてレギュラーに定着し、投手としては最速147キロの球速を記録。打者としても高校時代に20本のホームランを放つなど、投打の活躍を見せた。

特に印象深いのは、後に阪神タイガースのエースとなる秋山拓巳投手(当時・愛媛県立西条高校)との対戦だ。高岸氏が2年時だった2009年夏の愛媛大会決勝では、秋山投手の前に敗れ、甲子園出場の夢は叶わなかった。しかし「打倒秋山」を目標に野球部全体で打撃練習に励んだ日々は、チームの結束力を高める貴重な経験となった。

また、智辯学園和歌山高校との練習試合では、後に北海道日本ハムファイターズで活躍する西川遥輝選手とも対戦。高校時代から未来のプロ野球選手たちとしのぎを削っていたのである。

プロ球団からの誘いと大学進学の選択

高岸の実力は、プロ野球のスカウトの目にも留まった。阪神タイガースとヤクルトスワローズから声がかかり、プロ志望届を出せば育成選手として指名される可能性があったという。

しかし高岸は、済美高校野球部の監督からのアドバイスを受け入れ、大学進学の道を選ぶ。「大学に進学してからプロに行ったほうが良い」という言葉を信じ、さらなる成長を目指して東洋大学経営学部に進学した。育成選手としての年俸や活躍の保証がない中、より確実な道を選択したのは賢明な判断だったといえるだろう。

故障による野球断念と新たな人生

大学3年時の故障がもたらした転機

東洋大学に進学後も野球を続けていた高岸だったが、大学3年時に故障に見舞われる。それまで順調に歩んできた野球人生に、突如として暗雲が立ち込めた。プロ野球選手という夢を追い続けてきた高岸にとって、この故障は人生の大きな転換点となった。

野球ができなくなった喪失感の中で、高岸は自問自答を繰り返した。「野球はできなくなったが、他の方法でみんなに勇気を与えることはできないか」——そう考えていた時、東日本大震災が発生する。

サンドウィッチマンの復興活動に触発されて

震災後、サンドウィッチマンが被災地支援のために精力的に活動する姿を目にした高岸。高校入学時の寮で、前田と初めて語り合ったのがサンドウィッチマンの話題だったことを思い出す。「芸人ってすごい職業だ」という感動が、再び胸に蘇ってきた。

お笑い芸人という職業なら、野球とは違う形で人々に勇気や笑顔を届けることができる。高岸はそう確信し、高校時代から仲の良かった前田を誘ってコンビ結成を決意する。2015年、「ティモンディ」が誕生した瞬間である。

コンビ名の由来である持ちネタ「やればできる!」は、済美高校の校訓そのもの。野球部時代に叩き込まれた精神が、芸人としての活動の核心にも息づいている。

プロ野球選手への夢は消えず

芸人として順調にキャリアを積んでいた高岸だが、野球への情熱は消えることがなかった。2018年と2019年には2年連続でプロ野球合同トライアウトを受験。結果は不合格だったものの、現在でも150キロの剛速球を投げられる体をキープし続けている。

仕事のない日には朝7時からグラウンドに足を運び、3〜4時間のトレーニングを欠かさない。ダッシュ、四足歩行、野球の練習など、プロ野球選手になる夢を諦めていない証だろう。

そして2022年7月、ついに高岸の夢が一つの形で実現する。独立リーグ・ルートインBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団し、プロ野球選手としてのキャリアをスタートさせたのだ。芸人としての活動と並行しながら、グラウンドに立った。

まとめ:済美高校で培った精神が今も生きる

高岸宏行の人生は、決して平坦な道のりではなかった。プロを目指した野球人生、故障による挫折、そして芸人への転身。しかし済美高校野球部で培った「やればできる」という精神と、厳しい練習に耐え抜いた経験が、全ての困難を乗り越える原動力となった。

済美高校の校長が語るように、高岸の「あいさつ」と「気配り」は芸能界でも群を抜いているという。野球部時代に学んだ礼儀作法や上下関係の大切さが、競争の厳しい芸能界での成功を支えているのだ。

二つの故郷を持ち、野球とお笑いという二つの夢を追い続ける高岸宏行。その姿は、夢を諦めずに挑戦し続けることの尊さを、私たちに教えてくれている。

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