「デンと発音してください」という印象的な自己紹介で知られる藤田田。日本マクドナルド、日本トイザらスの創業者として、戦後日本の食文化とビジネスシーンを大きく変えた伝説の実業家です。
ソフトバンク創業者の孫正義氏に進路を示し、多くの経営者に影響を与えた彼の人生には、常識を打ち破る発想と行動力が詰まっています。
「田」という名前に込められた母の祈り
藤田田は1926年、大阪府で生まれました。珍しい「田(でん)」という名前は、母親がキリスト教徒だったことに由来します。「口」に「十字架」で、よい言葉を語るようにという意味を込めて、この名前が付けられました。
母の願いは、息子が人々に良い影響を与える言葉を発する人物になることでした。後に彼が経営者として数々の名言を残し、著作を通じて多くのビジネスパーソンに影響を与えたことを考えると、母の祈りは確かに実現したと言えるでしょう。
興味深いことに、本人はクリスチャンにはなりませんでした。東京大学在学中にGHQの通訳アルバイトで出会ったユダヤ人をきっかけに、ユダヤの教えへと深く傾倒していきます。
彼は後に自らを「銀座のユダヤ人」と称し、その商法を日本のビジネスに応用して大成功を収めることになります。
天才学生が築いた起業家としての原点
藤田田は旧制北野中学、松江高校を経て、東京大学法学部に進学しました。しかし、彼にとって大学は期待外れの場所でした。同級生を「変態性欲とバカの集まり」と評し、東京大学ですら退屈な場所だと感じていました。
それでも彼は「東大卒」という学歴を戦略的に獲得します。授業にはあまり出席せず、マッカーサーの司令部で通訳の仕事に就きました。そこで出会ったユダヤ人兵士が、階級は低いにもかかわらず貸金業で裕福な生活を送っている姿に衝撃を受けます。これが彼のビジネス観を根底から変えるきっかけとなりました。
在学中に「藤田商店」を設立し、学生起業家としてヨーロッパからの輸入雑貨販売を手がけました。ユダヤ人から学んだ「契約は絶対に守る」という信条を徹底し、ビジネスパートナーからの信用を獲得していきました。納期を守るためにボーイング707をチャーターして2000万円を支払ったというエピソードは、彼の信用第一主義を象徴する逸話として知られています。
日本マクドナルド創業の奇跡

日本マクドナルド誕生の経緯は、まさに偶然と執念が生んだ奇跡でした。
藤田商店のシカゴ店の支店長であるユダヤ人が、「ハンバーガーのマクドナルドをやってみないか」と持ちかけてきました。当初、藤田は本業が忙しいと断ります。するとマクドナルドの副社長が来日し、日本でのパートナーを探し始めました。
藤田は大手商社などの友人を20人ほど紹介しますが、すべて失敗に終わります。重役たちの前で2時間マクドナルドについて説明しても半分は寝ており、説明が終わると決裁権のない若手社員が「私が担当します」と出てくる状況でした。マクドナルド側は、決定権を持たない人間との提携は失敗すると判断しました。
2年が経過し、藤田がシカゴを訪れた際、再び「お前がやれ」と言われます。そして1971年、ついに日本マクドナルドが誕生しました。
藤田は米国マクドナルドの創業者レイ・クロックと直接交渉し、驚くべき契約条件を勝ち取ります。出資比率を米国本社と日本マクドナルドで50対50の折半とし、さらに藤田商店に対しても1パーセントのロイヤリティを「経営指導料」として支払う契約を結びました。日本のビジネスのやり方を教えるのだから指導料をもらうのは当然、という理屈でした。
1971年7月20日、銀座三越にマクドナルド第1号店がオープンしました。この日が、日本のファストフード文化の始まりとなったのです。当時の佐藤栄作首相から「ハンバーガーというのはシュウマイみたいなものか」と尋ねられるほど、ハンバーガーの認知度は低い状況でした。
藤田は日本語の研究にも熱心で、「McDonald’s」を英語の発音に忠実な「マクダーナルズ」とせず、アメリカ本社の反対を押し切って「日本語的に馴染みやすい3・3の韻になるよう」に「マクドナルド」としました。こうした細やかな配慮が、日本での成功につながったのです。
高校生・孫正義を導いた運命の15分間

藤田田の影響力を語る上で欠かせないのが、ソフトバンク創業者・孫正義氏との出会いです。
1974年、16歳の孫正義は藤田田の著書「ユダヤの商法」を読んで感動し、なんの接点もアポもない状態で藤田田に会いに行きました。何度も断られる中、孫正義少年は秘書に「顔を見るだけでいい。三分間、社長室に入れてくれれば良い」とメモを渡し、粘り強く交渉を続けました。
そしてついに15分間の面談を実現させます。孫正義は「これから何をするべきか」と尋ね、藤田田から「これからの時代はコンピューターだ」というアドバイスを受けました。
孫正義はこのアドバイスを忠実に守り、カリフォルニア大学でコンピューターを学び、帰国後にソフトバンクを創業しました。ヤフー株式会社の設立、ボーダフォン買収、iPhoneの日本導入など、その後の快進撃は誰もが知るところです。
ソフトバンク成功後、孫正義が藤田田に報告すると、「あのときの高校生が?」と感激し、その場でパソコン300台を発注してくれました。藤田田は1990年代からソフトバンクの社外取締役も務め、二人の関係は師弟を超えた深い絆で結ばれていました。
ユダヤの商法が生んだビジネス哲学
藤田田の経営哲学の根幹にあったのは、ユダヤ人から学んだ商法でした。1972年に出版された『ユダヤの商法 世界経済を動かす』はベストセラーとなり、多くの経営者に影響を与えました。
彼が特に重視したのは以下の原則です。
- 「契約は絶対に守る」:信用を積み重ねることこそが、最大の資産である
- 「女と口を狙え」:女性が家計の消費を決める立場にあり、口に入るものは必ず消化され需要が繰り返される
- 「金持ちから流行らせろ」:富裕層をターゲットにしてブランドイメージを確立する
- 「78:22の法則」:市場は必ず不均衡に分配される
銀座という一等地に1号店を出したのも、この哲学の実践でした。高級ブランドが集まる銀座でマクドナルドを成功させることで、日本全国に信頼性を示したのです。
デフレ時代を制した価格戦略
バブル崩壊後の長期デフレ期、藤田田は大胆な価格戦略で業績を伸ばしました。1995年、210円だったハンバーガーを130円に、240円だったチーズバーガーを160円に、280円だったビッグマックを200円に大幅値下げしました。
他社が苦戦する中、マクドナルドは好決算を連発。2001年にはジャスダック市場に上場を果たし、「デフレ時代の勝ち組」として称賛されました。藤田は「うちの業績が良いのは、景気が悪いからだ」と語り、経済環境に適応する柔軟性の重要性を示しました。
ただし、その後の価格政策の迷走やBSE問題により、2001年に創業以来初の赤字に転落。2002年に社長を辞任し、2003年に会長も退任しました。
時代を超えて輝く経営者の言葉
藤田田は2004年4月21日、心不全のため78歳で亡くなりました。遺産総額は約491億円に上り、歴代6位の記録でした。
彼が残した言葉や著作は、今も多くの経営者に読み継がれています。タクシーに乗れば必ず運転手と会話して情報収集をする、電車では気軽に隣席の乗客に声をかけるなど、常に学び続ける姿勢を貫きました。
「口に十字架」という名前に込められた母の願いは、彼の言葉を通じて実現しました。孫正義をはじめ、ユニクロの柳井正など、日本を代表する経営者たちに影響を与え続けています。
藤田田の人生は、一人の人間が信念を持って行動し続ければ、文化そのものを変えることができるという証明でした。彼が日本に持ち込んだのはハンバーガーだけではありません。チャレンジ精神、契約の重要性、そして常識を疑う勇気という、時代を超えて輝くビジネスの本質だったのです。


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