1985年、日本映画史に残る不良映画が誕生した。
『ビー・バップ・ハイスクール』—きうちかずひろの人気コミックを実写化したこの作品は、当時無名だった一人の大学生を一夜にしてスターダムへと押し上げた。その男の名は仲村トオル。彼がどのようにして主役の座を掴み、過酷な撮影現場を生き抜いたのか。
公開から40年の時を経て、その知られざるドラマが今、明らかになる。
求人情報誌から始まった運命のオーディション
1985年夏、大学2年生だった仲村トオルは本屋で何気なく手にした『ザ・テレビジョン』の小さな記事に目を留めた。「映画の主役男性2人を公募」。プロ野球選手になる夢は中学時代に骨折で断たれ、熱中できるものを探していた青年にとって、その一行は新たな可能性を示す光のように映った。
しかし、応募した段階では、これがヤンキー漫画の実写化であることすら知らなかった。オーディション会場に到着して初めて知った現実は、彼の想像を遥かに超えていた。
会場には3、40人のヤンキーたちが集結していた。仲村は後にこう振り返っている。「すごい人数のヤンキーたちが『ケンカしたくてしょーがねーよ!!』とウズウズしている感じで、間違ったところに来てしまったと思った」。履歴書には過去の非行歴や「趣味はケンカ」と書かれ、待ち時間には喧嘩が始まり、事務所の壁に穴が空くほどの荒れようだった。
応募総数は5963人。書類選考を経て100人程度に絞られ、最終的に東映本社で選考が行われた。普通の大学生だった仲村は、「本物のツッパリの人もたくさん来ていて、目線が怖かったですよ。帰りに因縁つけられそうになったり」と語る。真面目な学生が不良たちに混じって受けたこのオーディションこそが、彼の人生を大きく変える転機となった。
監督の那須博之と原作者のきうちかずひろは、映画だけを考えれば本物の不良でもいいかもしれないが、人気原作ゆえに選ばれた俳優は注目されることが予想されたため、次の機会に繋げられる「まともな男」を選ぶことを決めていた。その判断が、仲村トオルという逸材の発掘につながった。
本物の不良が集結した過酷な撮影現場
オーディションに合格した仲村を待っていたのは、想像を絶する撮影環境だった。プレハブの30畳ほどの部屋に、不良役の若者たち約40人が寝泊まりする日々。映画の中では敵同士として激しくやり合う彼らだったが、現場では「みんな本当に、必死に、懸命にひとつのものをつくろうとしている仲間という感じ」だったと仲村は回想する。
俳優・小沢仁志は当時の撮影現場についてこう証言している。「出演者はほとんど現役ヤンキー。保護観察付きの者が出ていて、保護観察官が現場にいた」。出演の契約書には「もし喧嘩をしたら制作費を全額支払う」といった喧嘩禁止の特記事項まで設けられていたという。まさに『ビー・バップ』の世界観が、オーディションの段階から撮影現場まで再現されていたのだ。
アクションシーンは特に過酷だった。小沢仁志によれば「顔面以外は実際に当てて撮影し、中には骨折したり、カットがかかっても止まらず喧嘩を続ける者もいた」という。主演の清水宏次朗と仲村トオルは学ランの中にプロテクターを仕込んでいたが、小沢は学ランの前を開けて闘うため、腹にサラシを巻いただけでパンチやキックを直接体に受け続けたという。
那須監督の演出指示は現役ヤンキーたちに全く伝わらず、延々と芝居をやらされる場面もあったが、それがかえってリアルな迫力を生み出した。多くのアクションシーンで仲村をはじめとする役者たちが自ら体を張ってトライし、その熱量が作品に命を吹き込んだ。
清水宏次朗との不仲説—真実と誤解の狭間で
ダブル主演を務めた清水宏次朗との関係について、長年不仲説が囁かれてきた。2015年、テレビ番組『ヨソで言わんとい亭』に出演した清水は、MCの名倉潤から「仲村トオルさんは不良じゃなくてすごく真面目な人なのに受かって、清水宏次朗さんはヤンキーのまま受かったから話が合わない、という噂がある」と聞かれると、苦笑いしながら一言「合わないですね」と答えた。
清水は元々竹の子族のリーダーとして原宿でダンスを披露し、芸名「竹宏治」でアイドル歌手としてデビューした経歴を持つ。本名の「清水宏次朗」に改名後、『ビリー・ジョエルは似合わない』で東京音楽祭グランプリを受賞するなど、実は不良とは異なる華やかなキャリアを歩んでいた。しかし、ヒロシ役が完璧にはまり、「日本中のPTAを敵に回した男」とまで呼ばれるほどの強烈な印象を残した。
一方の仲村は、夢がプロ野球選手だった普通の大学生。この対照的なバックグラウンドが「話が合わない」という発言につながったのかもしれない。ただし、仲村は清水との関係について公の場で否定的なコメントをしたことはなく、作品についても常に好意的に語っている。劇中では同級生の設定だが、実年齢は清水の方が1つ年上だった。
興味深いことに、仲村が舎弟・ノブオ役で共演した古川勉は本作をきっかけに仲村を慕い、後にニッポン放送「仲村トオル待たせてゴメン」のセミレギュラーとして仲村と番組パーソナリティーを務めるほどの親密な関係を築いている。現場での人間関係は複雑だったものの、そこには確かな絆も生まれていたのだ。
映画を超えた社会現象へ
『ビー・バップ・ハイスクール』第1作は、薬師丸ひろ子・柴田恭兵主演『野蛮人のように』の併映、いわばB面的な扱いだった。しかし公開されるや大ヒットを記録。パンフレット55万部、ビデオ2万5000本、仲村トオル写真集が10万部売れ、テレビ放映権もTBSに売れるなど、あらゆる方面で記録を打ち立てた。
シリーズは1988年まで全6作が制作され、「不良映画」の金字塔となった。仲村トオルは日本アカデミー賞新人賞をはじめ数々の賞を受賞し、東映から久しぶりに誕生したアイドルスターとしてセントラル・アーツの専属となった。1986年からは『あぶない刑事』で町田透役を演じ、人気を不動のものとする。『ビー・バップ・ハイスクール』と『あぶない刑事』の撮影を1日で掛け持ちすることもあったという。
2025年、公開40周年を迎えた本作。6月には丸の内TOEIで仲村が登壇する舞台挨拶が行われ、12月には映画のロケ地となった静岡県静岡市清水区で周年イベント「清水 ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎祭」が開催された。仲村にとって、オーディション会場だった東映本社、初めての舞台挨拶を行った丸の内TOEI、そしてロケ地の清水は、すべてがかけがえのない思い出の地となっている。
40年ぶりに自身のデビュー作を鑑賞した仲村は「罰ゲームかと思った」と笑いながらも、「自分にダメ出し」をしつつ、当時を懐かしんだ。若さゆえの拙さはあったかもしれないが、あの時代にしか生み出せなかった熱量とリアリティが、今なお多くの人々の心に刻まれている。
「臆せず前へ」—仲村トオルの役者人生
求人情報誌の小さな記事から始まった物語は、一人の青年を俳優として大成させた。原作も読まず、不良でもなかった普通の大学生が、本物の不良たちと肩を並べ、時には命がけともいえる撮影に臨んだ。その経験が、仲村トオルという俳優の核を形成した。
『ビー・バップ・ハイスクール』は、日本映画史上最も成功した漫画原作映画の一つといわれている。それは単なる不良映画ではなく、青春の痛みと輝きを真正面から描いた作品だった。清水宏次朗との不仲説、本物の不良が集った撮影現場、そして命がけのアクション—すべてが伝説となり、今も語り継がれている。
仲村は後に出演した映画『八月の〜』で、「臆せず前へ」というセリフを口にした。『ビー・バップ』の経験を胸に、恐れることなく前を向いて進んできた彼の役者人生そのものを表す言葉だ。
あのオーディション会場で、本物のヤンキーたちの中で萎縮することなく立ち続けた青年は、今や日本を代表する俳優の一人となった。『ビー・バップ・ハイスクール』という作品が、一人の若者に与えた影響は計り知れない。そしてその作品は、時代を超えて今もなお、多くの人々に勇気と熱狂を与え続けている。


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