澤村拓一は巨人入団前にヤンキースを目指していた?
「巨人のエース」、そして後年は「守護神」としてファンの記憶に刻まれている澤村拓一。2025年シーズンを最後に現役を退いた今、あらためて振り返ると、実はプロ入り前に「ヤンキース入り」が本気で検討されていたという知られざるエピソードがある。
舞台は中央大学時代。恩師である当時の中大監督・高橋善正氏は、澤村をドラフトにかけず直接メジャーへ送り込もうと考えていた。その一環として、澤村は大学4年の春、単身ニューヨークへ渡っている。なぜ高橋氏はヤンキースを本命候補に据えたのか。そして澤村本人はどう感じていたのか。今回は、この「幻のヤンキース入り」の全貌を時系列でたどっていく。
中央大学時代の澤村拓一はどんな投手だった?
澤村は栃木・佐野日大高校出身。実は高校時代はエースではなく控え投手にとどまり、目立った実績のないまま夏の大会を終えている。中央大学の入部テストでも、体格の良さと投球フォームの評価で合格したにすぎず、当時のストレートは140キロ台前半だった。
しかし大学入学後、状況は一変する。徹底したウエイトトレーニングによって、控え投手だった青年は最速157キロを計測する剛腕へと成長していった。東都大学リーグ1部通算では19勝14敗、266奪三振という数字を残し、大学球界を代表する投手の一人として「大学球界BIG4」に数えられ、日米大学野球選手権の日本代表にも選ばれている。
高橋監督が澤村のメジャー挑戦を後押ししたくなったのも、この急成長ぶりを間近で見ていたからだろう。体格に恵まれ、誰よりも練習量をこなせる選手だったことに加え、駆け引きよりも力と力の真っ向勝負を好む投球スタイルが、メジャーの野球により合っていると感じていたようだ。
なぜ澤村はニューヨークへ渡ったのか?
転機となったのは大学4年、2010年の春だった。高橋監督は、日本のプロ野球を経ずに直接メジャーを目指すべきだと澤村を説得し、約1週間、ニューヨークへ送り出した。目的はヤンキースタジアムでの本場のメジャーリーグ観戦。実際にヤンキース戦などを現地観戦させ、澤村自身にメジャーの空気を肌で感じさせることが狙いだった。
当時、社会人野球出身の田澤純一投手が前年に直接メジャー入りした例はあったものの、ドラフト上位候補と目される大学生選手が海を渡った前例はまだなかった。高橋氏は、澤村がそのパイオニアになれると本気で考えていたとされ、実際に旧知の米球界関係者から興味を示された経緯もあったという。単なる思いつきではなく、具体的な人脈を通じたアプローチだったことがうかがえる。
では当の澤村本人は、目を輝かせて「メジャーに行きたい」と言ったのか。ここに、このエピソードの面白さがある。
「ヤンキース入り」はなぜ実現しなかった?
ニューヨークから帰国した澤村の反応は、高橋監督の期待とは逆だった。「いきなり(アメリカは)無理です」——これが澤村の率直な言葉だったという。
高橋氏は、この慎重すぎるとも言える姿勢のままメジャーに挑んでいたら成功は難しかっただろうと振り返りつつも、結果的には巨人から1位指名を受けたことが良い巡り合わせになったと評している。無理に背中を押すのではなく、本人の意思を尊重した形だ。
そして迎えた2010年秋のドラフト会議。澤村は全12球団が1位候補に挙げるほどの評価を受けていた。同じ中央大学出身の阿部慎之助や亀井義行の活躍を見て育った澤村は、もともと巨人入りを希望しており、まさに「相思相愛」と言われる中での指名だった。結果、巨人が単独で1位指名し、澤村は記者会見で涙を流している。
なお本人は後年、ドラフト当時は複数のメジャー球団からもオファーがあり、巨人以外の球団から指名されていた場合はアメリカでのプロ入りを選んでいた可能性があったと明かしている。つまり、ヤンキース入りの可能性は大学時代だけでなく、ドラフト直前まで現実味を帯びていたということになる。この一連の顛末が、後に「幻のヤンキース入り」と呼ばれるようになった所以だ。
巨人入団後、いきなり新人王に
2011年に巨人へ入団した澤村は、その年からいきなり先発ローテーションに定着。11勝を挙げる活躍を見せ、新人王を獲得した。華々しいプロ初年度を送ったことで、「もしあのままアメリカへ渡っていたら、この活躍はなかったかもしれない」というファンの想像も膨らんだ。結果的に、日本での実績づくりを優先した判断は、間違っていなかったと言えるだろう。
巨人のエース候補からクローザーへ
先発として頭角を現した澤村だったが、入団5年目の2015年、クローザーへ転向する。開幕から抑えを任されると60試合に登板して36セーブをマークし、新守護神として存在感を示した。翌2016年も開幕から抑えを務め、2年連続で60試合に登板。37セーブを挙げて自身初となる最多セーブのタイトルを獲得した。先発でもリリーフでも結果を残せる投手として、澤村のキャリアはさらに幅を広げていった。
そして本当にメジャーリーグへ
2020年9月、澤村は交換トレードで巨人から千葉ロッテマリーンズへ移籍。そして同年11月末、海外フリーエージェント(FA)権の行使を表明する。国内残留も選択肢に入れつつ複数球団のオファーを比較検討した末、2021年2月、澤村が選んだのは東海岸の名門・ボストン・レッドソックスだった。2年契約(総額約3億1600万円、3年目は球団側にオプション)という条件での契約だった。
高橋氏はこの移籍決定を、10年越しの朗報だと受け止めたという。大学時代に本気でヤンキース入りを模索してから約10年、教え子はついに自らの意思でメジャーの舞台に立つことになったのだ。2021年からレッドソックスの一員としてメジャーのマウンドに登板し、大学時代に見た「夢」は、遠回りをしながらも現実のものとなった。1年目は55試合に登板して5勝1敗、防御率3.06という結果を残している。
「ヤンキース」と「澤村拓一」の意外な接点
結果として澤村がメジャーでプレーしたのはヤンキースではなくレッドソックスだった。皮肉にも、レッドソックスが所属するア・リーグ東地区の宿敵こそヤンキースであり、澤村は現役時代に通算12試合でヤンキース打線と対戦している。直接的な入団こそ幻に終わったが、大学4年の春にヤンキースタジアムで肌で感じたメジャーの空気こそが、澤村のキャリアの中に「いつかメジャーへ」という種をまいたのは間違いないだろう。大学時代のメジャー志向が、10年後の海外FA権行使という決断の伏線になっていたと見ることもできる。
なぜ澤村は日本でのプロ入りを選んだのか?
高校時代は控え投手、大学入学時も評価は決して高くなかった澤村。そんな澤村が「いきなりアメリカは無理」と感じたのは、ある意味で自然な反応だったとも言える。加えて、日本には憧れの球団・巨人があり、同じ中央大学出身の先輩たちが活躍する姿を間近で見て育った環境も大きかった。
ドラフト制度という日本特有の仕組みの中で、全12球団から1位候補として名前が挙がるほどの評価を受けていた澤村にとって、まず日本で実績を積み、自信をつけてから海外に挑戦するという選択は、決して消極的なものではなく、むしろ着実なキャリア形成だったと言える。新人王、最多セーブという実績を経てからのメジャー挑戦は、結果的に理にかなった歩みだったのではないだろうか。
まとめ|澤村拓一にとって「ヤンキース」は幻の夢だったのか
中央大学時代からメジャーを意識し、恩師の勧めで単身ニューヨークへ渡った澤村拓一。当時は「いきなりは無理」と感じて日本でのプロ入りを選んだが、巨人で新人王、最多セーブという実績を積み、最終的には海外FA権を行使してレッドソックスでメジャーの舞台に立った。
もし2010年に本当にヤンキース入りを決断していたら。そんなことを想像するのも楽しいが、遠回りをしてでも自らの意思でメジャーへたどり着いた澤村のキャリアそのものが、一つのドラマだったと言えるだろう。「幻のヤンキース入り」は、澤村拓一という投手の原点を物語る、知られざるエピソードなのだ。





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