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メッセンジャー黒田有の壮絶な極貧生活とは|母子家庭・ミカン1箱の養育費・風呂なしの文化住宅で過ごした高校時代

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お笑いコンビ「メッセンジャー」のボケ担当・黒田有(くろだ たもつ)さん。関西のバラエティー番組で独特のダミ声とトークで人気を博す黒田さんですが、その裏には壮絶な「極貧」の少年時代がありました。母子家庭で育ち、風呂のない文化住宅で18歳まで暮らし、修学旅行にも行けなかったという黒田さん。今回は、本人がラジオやテレビ、著書などで語ってきたエピソードをもとに、その生い立ちを詳しく紹介します。

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黒田有の生い立ち|母子家庭で育った少年時代

黒田有さんは1970年1月29日、大阪府東大阪市生まれ。4人兄弟の末っ子として生まれましたが、幼いころに両親が離婚し、母親が女手ひとつで4人の子どもを育てることになりました。

母親は近所でジーンズ店や化粧品店、クリーニングの取次店などさまざまな商売に挑戦したものの、いずれもうまくいかず、最終的には自宅で和洋裁の針子(縫製の内職)をしながら生活費を稼いでいたといいます。1人で5人分の生活を支えるのは並大抵のことではなく、黒田家の暮らしは常に困窮していました。

「養育費がミカン1箱」だった?父親との関係

黒田さんの父親は、離婚前から借金を抱え、女性関係のトラブルもあったとされ、黒田さんが生まれてすぐに家を出て行きました。投資やギャンブルを好む性格で、会社員には向いていなかったと黒田さん自身が振り返っています。

離婚後、父親から送られてきた養育費が、なんと「ミカン1箱」だったというエピソードは、黒田さんの貧乏話の中でも特によく知られたものです。現金ではなく現物、それも段ボール1箱分のミカンだったというインパクトのある逸話は、黒田さんが自虐ネタとしてたびたび披露してきました。父親とは、その後もほとんど交流がなかったといいます。

風呂のない家、ネズミに耳をかじられた幼少期

黒田さんが18歳まで暮らした家は、1950〜60年代に建てられた、関西でよく見られる「文化住宅」と呼ばれる木造2階建てアパートでした。間取りは6畳と4畳半にミニキッチンとトイレが付いているだけで、お風呂はなかったといいます。

さらに衝撃的なのが、赤ちゃんの頃にネズミに左耳をかじられたというエピソードです。1歳になる前の出来事で本人に記憶はないそうですが、それほどネズミが出入りするボロ家だったということでしょう。トイレも旧式のボットン便所で、しかも2階にあったため、便器から下の便つぼまでの距離が3メートル以上あり、「落ちたら確実に死ぬ」と言われていたそうです。お金がなく汲み取りもままならない時期は、夏場になるとアンモニア臭で息もできないほどだったと、黒田さんは自虐交じりに振り返っています。

修学旅行にも行けなかった極貧の高校時代

黒田さんは1988年に大阪府立布施北高等学校を卒業していますが、高校時代も家計の厳しさは変わりませんでした。特によく知られているのが、経済的な事情で修学旅行への参加をあきらめかけていたというエピソードです。

このとき、クラスメイトたちがお金を出し合ってカンパしてくれたことで、黒田さんは無事に修学旅行に参加できたと伝えられています。今では考えにくい話かもしれませんが、それだけ黒田さんの人柄が慕われていたことの表れともいえるでしょう。

極貧生活を支えた母親の存在

食卓に並ぶおかずは、イモやカボチャの煮物ばかりだったという黒田家。あまりに頻繁に出てきたため、黒田さんは大人になった今でもイモやカボチャがあまり好きではないと語っています。

また、黒田さんは幼少期に2度「置き去りにされた」というエピソードも明かしています。1度目は1歳になる前、近所の神社で。2度目は小学3年生の頃、近鉄奈良線の駅のそばで。いずれもしっかり者の長男が黒田さんの姿が見えないことに気づき、探し出してくれたそうです。大人になってから母親に聞くと「あれは冗談」と答えたそうですが、黒田さんは「冗談になってない」と笑いながら振り返っています。それだけ、母親も追い詰められるほどの生活だったということでしょう。

貧乏経験が芸人・黒田有の「笑い」の原点に

黒田さんは高校卒業後、料理店で修業して板前として働いた後、21歳でお笑いの道を志し、吉本総合芸能学院(NSC)大阪校10期生として入学。1991年にあいはら雅一さんと「メッセンジャー」を結成しました。しゃべくり漫才を武器に関西のテレビで人気を集め、現在では関西の民放各局にレギュラー番組を持つ売れっ子芸人の1人となっています。

こうした過去の貧乏エピソードを、黒田さんは隠すことなく、むしろ笑いのネタとして積極的に語ってきました。壮絶な体験を湿っぽくならずにユーモアを交えて語るスタイルは、大阪の芸人らしい強さともいえます。黒田さん自身、「大阪やったからこそ、あの貧乏でも生活ができた」「困っている人を放っとけない近所付き合いに助けられた」と、当時を懐かしむように振り返っています。

まとめ|極貧の少年時代を乗り越え、人気芸人になるまで

  • 母子家庭で育ち、母親が女手ひとつで4人兄弟を育てた
  • 父親から届いた養育費はまさかの「ミカン1箱」
  • 風呂のない文化住宅で18歳まで生活し、赤ちゃんの頃にはネズミに耳をかじられた
  • 高校時代は修学旅行の費用にも困り、クラスメイトのカンパで参加できた
  • 食卓の定番はイモとカボチャ、幼少期には2度「置き去り」にされた経験も
  • こうした極貧の過去を隠さず、むしろ笑いに変えて芸人としての個性にしてきた

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