PR
スポンサーリンク

【石川啄木は借金王だった?】約60人から借金した驚きの金銭事情を解説

スポンサーリンク
歴史
スポンサーリンク

「働けど働けどなお わがくらし楽にならざり」の短歌で知られる石川啄木。しかし、その貧しい生活の背景には、単なる収入不足だけではなく、多額の借金や浪費癖もあったことをご存じでしょうか。

実は啄木は約60人もの知人から借金を重ね、「借金王」とまで呼ばれることがある人物でした。この記事では、石川啄木の借金エピソードや借金総額、借金を重ねた理由、親友・金田一京助との関係まで詳しく解説します。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

石川啄木は借金王だった?約60人から借金した驚きの事実

借金相手は約60人にのぼる

石川啄木が生涯で借金をした相手は、約60人にのぼるといわれています。その総額はおよそ1372円50銭。明治から大正にかけての物価水準を考えると、これは当時としてかなりの高額でした。

現代の貨幣価値に換算する方法はいくつかありますが、1円を1万円前後とする単純換算でも1000万円を超え、労賃をもとにした換算では2000万円近くになるという試算もあります。定職に就かず、わずか数年の間にこれほどの借金を重ねたという事実からは、啄木がほとんど借金によって生活を支えていたことがうかがえます。

借金を記録した「借金ノート」が残されている

啄木は自らの借金について、驚くほど几帳面に記録を残していました。誰から、いつ、いくら借りたのか、そして返済の状況までを細かく書き留めたメモは、後に「啄木の借金ノート」として知られるようになります。

このノートは啄木の友人であった宮崎郁雨によってまとめられ、公にされました。故郷の渋民村や盛岡、仙台、北海道、東京と、居住地を移すたびに借金相手と金額が記されており、啄木の生活史そのものを映し出す資料ともなっています。金銭にはだらしなかった一方で、記録だけはきちんと取っていたという点に、啄木の意外な一面が垣間見えます。

石川啄木はなぜ借金ばかりしていたのか?

生活苦だけではなかった

啄木が借金を重ねた背景には、まず単純な生活苦がありました。若くして妻子や母を養う責任を負い、さらに結核による体調不良にも悩まされていました。文学、とりわけ短歌や詩による収入は極めて少なく、新聞記者や代用教員などの職に就いても長続きせず、転職を繰り返したことも収入の不安定さに拍車をかけました。

こうした事情だけを見ると、啄木の借金は「食べていくための已むを得ない選択」のようにも思えます。しかし実際には、それだけでは説明のつかない一面もありました。

浪費癖や見栄も原因だった

啄木の借金には、生活のためだけではなく、浪費や見栄によるものも少なくありませんでした。酒や芸者遊び、娼妓遊びに散財し、寿司や天ぷらといった贅沢な外食を重ねるなど、収入に見合わない出費を続けていた記録が残っています。手元に金が入ると、生活費に回すよりも先に遊興費として使い果たしてしまうことも多く、身の丈に合わない振る舞いが目立ったと伝えられています。

つまり啄木の借金生活は、「貧乏だから仕方なく借りていた」という単純な図式だけでは語れません。困窮していながらも見栄を張り、享楽的な出費を続けたところに、この人物の複雑さが表れているといえるでしょう。

最大の理解者・金田一京助との関係

学生時代から何度も援助していた

啄木の借金相手の中でも、とりわけ重要な人物が言語学者の金田一京助です。二人は学生時代からの親友で、金田一は啄木の才能を早くから認め、経済的にも支え続けました。

なお、借用額そのものが最も多かったのは、啄木の妻・節子の妹婿にあたる宮崎郁雨(150円)で、金田一京助はそれに次ぐ100円を貸していたとされています。それでも金田一が特別な存在とされるのは、金額の大小以上に、啄木が東京での生活に行き詰まるたびに家賃や日々の生活費まで繰り返し肩代わりし、精神的な支柱であり続けたからです。1908年に二人が「赤心館」という下宿で共同生活を送った際には、生活費のほとんどを金田一が負担していたという記録も残っています。

金田一京助は返済をほとんど期待していなかった

金田一は、啄木に貸した金がそのまま返ってくるとはあまり期待していなかったともいわれています。それでも援助を続けたのは、啄木の文学的な才能を心から信じ、その活動を支えたいという思いがあったからでしょう。

金銭的には報われなかったこの友情は、啄木の死後も語り継がれ、彼の人物像を語るうえで欠かせないエピソードとなっています。

借金だけではない石川啄木のお金にまつわるエピソード

啄木の金銭にまつわる逸話は、借金だけにとどまりません。勤め先からは給料の前借りを願い出ることがたびたびあり、原稿を書く際にも原稿料を前払いしてもらえないかと依頼することがありました。

また、知人に宛てて金の無心を頼む手紙も数多く残されています。困った時にはためらわず知人を頼る一方で、家族にも金銭的な負担を強いる結果となり、妻や母は苦しい生活を強いられていたことが伝えられています。

借金を返済できたのか?

26歳で結核により死去

啄木は結核を患い、1912年、26歳という若さでこの世を去りました。文学史に大きな足跡を残した歌人でありながら、その最期は決して恵まれたものではありませんでした。

多くの借金を残したまま亡くなった

生前に借金を完済することはほとんどできず、多くの借金を抱えたまま亡くなったとされています。約60人にのぼる貸し手の中には、返済を受けられないまま啄木を見送った人も少なくなかったでしょう。

家族や関係者への影響

啄木の死後、残された借金の整理や家族の生活を支えたのも、やはり金田一京助や宮崎郁雨といった友人たちでした。啄木個人の才能への評価とは別に、周囲の人々が経済的な後始末に奔走したという事実も、この人物を語るうえで見過ごせない側面です。

「働けど働けど」の短歌と借金生活の関係

有名な短歌が生まれた背景

「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」という短歌は、働いても働いても暮らしが楽にならないという嘆きを詠んだものとして広く知られています。この歌の背景には、実際に困窮を極めていた啄木自身の生活があったと考えられます。

本当に生活は苦しかったのか

収入の少なさや職の不安定さを考えれば、啄木の生活が苦しかったこと自体は事実でしょう。しかし前述の通り、浪費や見栄による出費も多く、必ずしも「働いても生活が成り立たないほど収入が少なかった」だけが実情ではなかったとも指摘されています。

浪費癖とのギャップも文学史では有名

こうした短歌に表れる悲哀と、実生活での浪費や享楽的な一面とのギャップは、文学史の中でもしばしば話題にされてきました。清貧のイメージだけでは語れない啄木の人物像は、彼の作品をより立体的に理解するための手がかりにもなっています。

石川啄木の借金エピソードから分かる人物像

数々のエピソードから見えてくる啄木の人物像は、一言では言い表せません。天才的な歌人として高く評価される一方で、金銭管理は極めて苦手であり、身の丈に合わない生活を続けていました。

それでも金田一京助をはじめ多くの人々が援助を惜しまなかったことから、人に愛される性格であり、周囲が放っておけないだけの魅力を持っていたこともうかがえます。借金癖も含めて、良くも悪くも人間味あふれる人物であったといえるでしょう。

まとめ

  • 石川啄木は約60人から借金していた
  • 借金総額は約1372円50銭に達した
  • 生活苦だけでなく浪費癖や見栄も借金の原因だった
  • 親友・金田一京助が何度も援助していた
  • 借金を抱えたまま26歳で亡くなった
  • 「働けど働けど」の短歌の裏には、複雑な金銭事情があった

短歌の名手として知られる石川啄木ですが、その裏には約60人からの借金という驚きの金銭事情がありました。生活苦と浪費癖が入り混じったその人生は、単なる「貧乏歌人」というイメージを超えた、複雑で人間味あふれるものだったといえるでしょう。

【葛飾北斎はなぜ93回も引っ越した?】掃除嫌いと言われる驚きの理由を解説
「葛飾北斎は生涯で93回も引っ越した」という驚きのエピソードをご存じでしょうか。世界的名作『富嶽三十六景』を生み出した天才浮世絵師・葛飾北斎は、その芸術性だけでなく、常識では考えられない生活ぶりでも知られています。なぜ北斎はそれほど頻繁に引…
【太宰治の借金エピソード】編集者や友人から金を借り続けた波乱の人生とは
「太宰治は借金ばかりしていた」そんな話を耳にしたことがある人は多いでしょう。実際、太宰は生涯を通じて金銭問題に悩まされ続けた作家でした。しかも実家は青森県屈指の資産家。裕福な家に生まれながら、なぜ借金生活を送ることになったのでしょうか。本記…
【伊藤博文の愛人は何人いた?】芸者・妾・韓国人女性との関係と明治最大級の女性遍歴を徹底解説
初代内閣総理大臣・伊藤博文は「明治の元勲」として教科書にも登場する人物です。その一方で、当時から「大の女好き」として知られ、芸者遊びや妾(めかけ)、愛人との関係が政界でも公然の話題だったと伝えられています。近年はインターネット上で「韓国人女…
スポンサーリンク
歴史
スポンサーリンク
スポンサーリンク
シェアする
mh1980をフォローする
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました