新一万円札の顔として一躍注目を集めた渋沢栄一。「日本資本主義の父」と呼ばれ、数百もの企業設立に関わった実業家として知られていますが、実は私生活にも多くの人が関心を寄せています。
「愛人は何人いたのか」
「妻と愛人が同じ屋敷で暮らしていたというのは本当か」
「子どもが17人以上いたというのは事実なのか」
こうした疑問はSNSや検索でも度々話題になります。
本記事では、史料や識者の解説をもとに、渋沢栄一の女性関係・家族構成・子どもの人数について、時代背景も交えながら分かりやすく整理します。
渋沢栄一には複数の愛人(妾)がいた
結論から言うと、渋沢栄一には複数の愛人、当時の言葉で言う「妾(めかけ)」がいたことが史料からも確認されています。中でも名前と経歴がはっきり伝わっているのが「大内くに」という女性で、そのほかにも本郷真砂町や日本橋浜町に別宅を構えて関係を持った女性がいたと伝えられています。
ただし、これを現代の「不倫」という感覚でそのまま捉えるのは早計です。明治時代の政財界・華族の間では、正妻のほかに妾を持つことは珍しいことではなく、いわば公然の慣習として存在していました。渋沢自身も、伊藤博文や井上馨といった当時の要人たちと交際を深める中で、料亭遊びや妾を持つことが半ば必要とされる社交の一部だったとも言われています。
つまり渋沢栄一の女性関係の多さは、個人の資質だけでなく、当時の社会制度や男性中心の価値観と切り離せない背景があったのです。
最も有名な愛人「大内くに」との関係
数いる女性の中でも、特によく知られているのが「大内くに」です。彼女の出自については、実は史料によって伝わり方が異なります。よく知られているのは、戊辰戦争で夫を亡くした後、大阪の料亭で働いていたところを、大蔵省の仕事で大阪に単身赴任していた渋沢栄一と知り合ったという説です。
一方で、渋沢の曾孫にあたる歴史学者・穂積重行氏がまとめた研究では、くには京都近郊の生まれで、宮中で女官に仕える下働きの「女嬬(にょじょ)」だったとされ、戦争未亡人だったという説とは異なる経歴が示されています。決定的な一次史料に乏しく、どちらが定説と言い切れる段階にはないため、本記事では「複数の説がある」という前提で紹介します。
やがて二人は男女の関係となり、渋沢は東京に戻る際、正妻・千代の了承を得たうえで、くにを東京の自宅へ連れて帰りました。くにとの間には「文子(ふみ)」「照子(てる)」という二人の娘が生まれています。文子はのちに千代の兄の子である尾高次郎に嫁ぎ、次郎は武州銀行(現・埼玉りそな銀行)の初代頭取を務めました。照子は製紙業で活躍した大川平三郎に嫁いでいます。
くには単なる一時的な関係の相手ではなく、渋沢家の中で長く重要な存在であり続けたとされ、千代がコレラで亡くなった後も、渋沢家の子どもたちから慕われていたと伝えられています。
妻と愛人が同居していた「妻妾同居」は本当だった
驚かれることが多いのが、正妻・千代と愛人・大内くにが同じ屋敷で暮らしていたという事実です。これは「妻妾同居」と呼ばれ、当時としてもかなり珍しいケースだったと指摘されています。
千代とくにはほぼ同時期に子どもを産んでおり、二人の子どもたちは共に育てられました。実際、渋沢と千代の間に生まれた子どもたちも、幼少期から一緒に暮らしていたくにに強くなついていたと言われています。千代の死後、渋沢が新たに後妻を迎えようとした際には、子どもたちがくにではなく他家から妻を迎えることに強く反対したというエピソードも残っています。
現代の感覚からすると考えにくい生活形態ですが、当時としては「渋沢家の血筋を絶やさないための、ある種合理的な仕組み」として機能していた側面もあったとされています。
渋沢栄一の妻は2人
渋沢栄一は生涯で2人の妻を迎えています。
最初の妻・千代 渋沢が19歳のときに結婚した最初の妻は、いとこにあたる尾高千代です。長年にわたり渋沢を支え続けましたが、コレラに感染し亡くなりました。
後妻・兼子 千代の死後、渋沢はかつて豪商であったものの没落した伊藤八兵衛の娘・兼子と再婚します。兼子は家庭を支える存在として、渋沢家を後年まで支えました。
子どもは17人以上いたって本当?
渋沢栄一の子どもの人数については諸説ありますが、正妻との子どもと妾との子どもを合わせると「17人以上」というのが比較的よく引用される数字です。資料によっては20人前後にのぼるとする説もあります。
有名な例としては、のちに第一銀行の頭取となった長谷川重三郎がいます。彼は渋沢が68歳のときに愛人との間にもうけた13番目の子どもとされ、その順番にちなんで「重三郎」と名付けられたと伝えられています。
正式に認知された子どもは少なくとも数名にのぼるとされる一方、母親が誰かはっきりしない子どもの存在についても言及されることがあり、これが「人数に諸説ある」理由の一つになっています。渋沢自身、こうした複雑な家族関係によるトラブルを避けるため、1891年(明治24年)に「渋沢家家法」を自ら定め、家督や相続に関するルールを整備しました。
なぜこれほど女性関係が多かったのか?
渋沢栄一の女性関係の多さは、個人の性格というより、明治という時代の構造に根ざしている面が大きいといえます。
当時の政財界・華族社会では、正妻のほかに妾を持つことが公然と行われており、それが社会的地位や人脈を示す一種の慣習にもなっていました。また、跡継ぎを確実に残すことが「家」の存続にとって極めて重要視されていたため、子どもを多くもうけること自体が家業や家系を守る手段と考えられていた側面もあります。
現代であれば強く非難されるであろうこうした関係のあり方も、当時の価値観の中では珍しいものではなかった、という点は理解しておく必要があります。
女性遍歴から見える渋沢栄一の人物像
渋沢栄一は、仕事においては非常に厳格で、近代日本の経済基盤を築いた合理的な実業家として知られています。一方でプライベートでは、複数の女性と関係を持ちながらも、生まれた子どもたちを分け隔てなく大切に育てようとした一面もうかがえます。
女性関係の多さについては、現代の価値観からすれば賛否が分かれるところでしょう。しかし、それを単に「スキャンダル」として消費するのではなく、明治という時代の社会制度や家族観を踏まえたうえで理解することが、渋沢栄一という人物を正しく捉えるためには欠かせません。
よくある質問(FAQ)
Q1. 渋沢栄一の愛人は何人いましたか?
正確な人数は明らかになっていませんが、大内くにをはじめ複数の女性がいたことが史料から確認されています。なお、大内くにの出自については、大阪の料亭で働いていたとする説と、京都の宮中に仕えていたとする説があり、詳細は資料によって異なります。
Q2. 妻と愛人が同居していたのは本当?
はい。正妻・千代と愛人・大内くにが同じ屋敷で暮らす「妻妾同居」の生活を送っていたことが知られています。
Q3. 子どもは本当に17人以上いたのですか?
正妻・妾との子どもを合わせて17人以上とされることが多く、資料によっては20人前後とする説もあります。
Q4. なぜ愛人がいても問題にならなかったのですか? 明治時代には妾を持つことが社会的に広く受け入れられており、財界人や華族の間では珍しいことではありませんでした。
まとめ
- 渋沢栄一には複数の愛人(妾)がいたとされる
- 最も有名な愛人は「大内くに」
- 正妻・千代と愛人が同居する「妻妾同居」の生活を送っていた
- 妻は千代と兼子の2人
- 子どもは17人以上とされ、20人前後とする説もある
- 女性関係の多さは、当時の社会制度や価値観を踏まえたうえで理解することが重要
渋沢栄一の私生活は、現代の感覚では驚くべき内容も多く含まれていますが、それは同時に明治という時代そのものを映し出す鏡でもあります。功績と私生活の両面から見ることで、この人物像をより深く理解できるのではないでしょうか。






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