PR
スポンサーリンク

織田信長が唯一恐れた男——上杉謙信が織田軍を壊滅させた「手取川の戦い」の真実

スポンサーリンク
歴史
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

なぜ信長が上杉謙信を「恐れた」のか

戦国時代に数多の武将を蹴散らし、「第六天魔王」とまで称された織田信長。その彼が、生涯においてほとんど唯一、真正面から激突することを避け続けた相手がいる。

越後の龍・上杉謙信である。

信長は武田信玄を「手強い」と評しながらも、最終的には武田を滅ぼした。しかし謙信に対しては、露骨なまでに慎重だった。外交文書では異例の丁寧語を用い、謙信の怒りを買う行動を何度も謝罪し、贈り物を繰り返した。なぜか。

答えは1577年の秋、加賀国・手取川の河原に刻まれている。

手取川の戦い

戦いの背景

天正5年(1577年)、上杉謙信は「関東管領」として室町幕府秩序の回復を掲げ、能登・加賀方面へと大軍を進めた。これに対し、織田信長は能登の畠山氏を支援すべく、柴田勝家を総大将とした約4万の大軍を派遣する。

織田方の布陣は錚々たる顔ぶれだった。

  • 柴田勝家(信長の筆頭家老)
  • 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)
  • 前田利家
  • 佐々成政

これだけの精鋭を揃えれば、いかな謙信といえど正面突破は困難なはず、織田方はそう踏んでいた。

濃姫の謎に包まれた生涯|織田信長の正室はなぜ歴史から消えたのか
歴史に消えた戦国の姫織田信長の正室として知られる濃姫(帰蝶)。美濃の蝮と恐れられた斎藤道三の娘として生まれ、政略結婚で信長に嫁いだ彼女の人生は、謎に包まれています。結婚後の記録がほとんど残っていないという不思議な存在。果たして濃姫は信長とど…

秀吉の「予言」と撤退

ところが、ここで興味深い行動をとった武将がいる。羽柴秀吉である。

秀吉は謙信軍の動向を察知するや、独断で軍を引き揚げ、美濃(岐阜)へと帰還してしまう。後に「命令なき撤退」として柴田勝家から激しく非難されるこの行動は、秀吉なりの「勝てない戦」への判断だったと言われている。

のちに天下人となる秀吉の嗅覚は、ここでも冴えていた。

手取川、夜の急襲

1577年9月23日。上杉謙信は手取川を夜のうちに密かに渡河し、川を背にして布陣していた織田軍の背後を突いた。

渡河の最中に敵に気づいた織田軍は混乱に陥る。川を背にした退路なき状況で、上杉の精鋭が一気に攻め込んだ。結果は壊滅的だった。

織田方の記録によれば、この戦闘で千人以上が討ち死に、さらに多数が手取川に落ちて溺死した。

柴田勝家は命からがら逃げ延び、信長のもとへ敗戦を報告する羽目になった。

信長の反応

この報を受けた信長が何を感じたか、明確な記録は残っていない。しかし彼がこの後、自ら謙信討伐に乗り出さず、外交によって謙信との関係修復を試みたことは事実である。天下人に最も近い位置にいた信長が、正面対決を避けたのだ。


なぜ上杉軍は強かったのか

「戦の神」と呼ばれた理由

上杉謙信は生涯70回以上の戦を経験し、負けたのはわずか数回という驚異的な戦績を誇る。その強さの源泉はいくつかある。

①圧倒的な個人の武勇と指揮能力 謙信は自ら最前線に立ち、敵陣に斬り込む「武将の中の武将」だった。川中島の戦いでは、単騎で武田信玄の本陣に乗り込んだという伝説的なエピソードまで残っている。将が恐れを見せない軍は強い。

②「義」による求心力 謙信が兵を集められた最大の理由は、金や権力ではなく「義のため」という大義名分だった。関東の諸侯や越中・能登の国人たちが謙信のもとに集まったのは、彼が純粋に「道義」を重んじる武将だったからだ。信長の「恐怖による支配」とは対照的な統率力だった。

③機動力と奇襲戦術 手取川での勝利が象徴するように、謙信は正面からぶつかるだけでなく、敵の意表を突く機動力を持っていた。夜間渡河・背後急襲という戦術は、当時の常識を超えた大胆さだった。

信長と謙信の「文書外交」

実は両者の間には、直接の大規模衝突以前から緊張した外交関係があった。

謙信が信長の行動(特に足利義昭への対応)に激怒すると、信長はすぐさま使者を送り、丁寧な謝罪の書状を届けた。「天下布武」を掲げて誰にも頭を下げなかった信長が、謙信には異例の低姿勢を見せたのである。

歴史家はこれを「信長の現実主義」と評するが、見方を変えれば——信長は謙信を、正面から勝てない相手だと認識していたということになる。

もし謙信が生きていたら

1578年3月、上杉謙信は突然の脳卒中で倒れ、49歳の生涯を閉じた。

その死の直前、謙信は大軍を率いて再び西上(信長の本拠地・畿内方面への進軍)を計画していたという。手取川での勝利から勢いに乗った謙信が、そのまま信長と激突していたら——歴史家の間では今も語り継がれる「最大のIF」だ。

多くの専門家は「謙信の西上が実現していれば、織田政権は重大な危機に瀕していた」と評価する。それほど、手取川の勝利は決定的な意味を持つ戦いだったのだ。

まとめ

項目内容
戦いの名称手取川の戦い
年代天正5年(1577年)9月
場所加賀国・手取川(現・石川県)
織田方総大将柴田勝家
上杉方上杉謙信(総大将)
結果上杉軍の圧勝、織田軍1000人以上が死亡

手取川の戦いは、単なる一戦闘ではない。「天下人」に最も近かった織田信長が、唯一超えられなかった壁の存在を証明した戦いである。

謙信は利益や領土のためでなく、「義」のために戦った。その純粋さが兵を鼓舞し、戦略的な天才性と組み合わさることで、信長でさえ恐れる軍事力を生み出した。

天下統一を果たしたのは信長の後継者・豊臣秀吉だった。しかし謙信が生きていれば——その歴史は、まったく違う姿になっていたかもしれない。

織田信長は生きていた?本能寺の変の真実と生存説の謎を徹底解説
本能寺の変で本当に死んだのか1582年6月21日、日本史上最も有名な裏切り事件が起こりました。明智光秀による本能寺の変です。天下統一を目前にしていた織田信長は、わずかな供回りとともに京都の本能寺に宿泊中、突如として襲撃されました。しかし、こ…
本能寺の変に徳川家康が関与?黒幕説の真相を歴史的事実から検証
はじめに:歴史ミステリーとして語り継がれる本能寺の変1582年6月2日、京都・本能寺で起きた明智光秀による主君・織田信長への謀反。日本史上最大のミステリーとも称されるこの事件には、数多くの黒幕説が存在します。中でも近年注目を集めているのが「…
秀吉が最も恐れた男——伊達政宗「白装束」の謀略と、天下人が抱いた深い警戒心
戦国時代、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。しかし彼が唯一、真正面から恐れた武将がいた。伊達政宗である。「死に装束で参上する」という前代未聞の決断。その真相と、秀吉の複雑な心理に迫る。白装束エピソードとは何か1590年(天正18年)、豊臣秀吉は…
スポンサーリンク
歴史
スポンサーリンク
スポンサーリンク
シェアする
mh1980をフォローする
スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました