「世界チャンピオンになれば一生安泰」
多くの人がそう思うかもしれない。しかし、元WBC世界フライ級王者の内藤大助は違った。
世界王者のベルトを腰に巻きながら、時給900円のレンタカー店でアルバイトを続け、妻も喫茶店でアルバイトをしながら家計を支えていた。アルバイトの月収はわずか12万円。
弱小ジムには支援どころか毎月1万5000円の月謝を自ら払い、合宿費用も全額自腹だった。
「世界チャンピオン=大金持ち」というイメージとは、あまりにもかけ離れた現実がそこにあった。
なぜ世界王者が極貧生活を送っていたのか。いじめられっ子から国民的ボクサーへ。
内藤大助の知られざる下積み時代を振り返る。
北海道の貧しい少年時代——いじめが人生を変えた
内藤大助は1974年、北海道虻田郡豊浦町に生まれた。母親は大助を身ごもっている最中に夫と離婚しており、アルバイトをしながら大助と4歳上の兄の2人を育てた。一家の生活は決して楽ではなかった。
転機は中学2年生のとき。いじめの標的にされた内藤は、兄のお下がりの制服を着ていくたびに「ボンビー(貧乏)」と馬鹿にされ、給食のおかずや貴重品を取り上げられ、人目につかない場所で暴行を受け続けた。ついには胃潰瘍を患うほど追い詰められ、教師にも気づいてもらえず、ただ一人で耐え忍ぶ日々だった。
高校に進学するといじめっ子たちとは別の学校になり、ようやく解放された。ハンドボール部に入り、3年時には学校初の全道大会出場に貢献。しかし、卒業後に内定していたホテルの調理師の仕事は、研修中に上司と口論になり内定取り消しという憂き目に。そのまま定職にも就かず、だらだらと日々を過ごすフリーター生活が始まった。
20代で上京——書店でボクシング雑誌と運命の出会い
見かねた母親に叱咤されて上京した内藤は、生別した実父が経営する工務店で働き始める。そして上京から1年後、立ち寄った書店でたまたま手にしたボクシング雑誌が人生を変えた。
下宿先の近くにあった宮田ジムに飛び込みで入門。ボクシングを始めた動機は、実に内藤らしいものだった。
「地元に帰省したらいじめっ子に会うんじゃないかって怖かった。でも、ジムに通えばケンカに強くなれる。強くなれなくても『ジムに行っている』と言えば、いじめっ子をびびらせられるって思った」
純粋な格闘技への情熱ではなく、自分を守るための手段として始めたボクシングだった。しかしその選択が、32歳で世界の頂点に立つ道へとつながっていく。
なお、格闘技が嫌いだった母親には「あんな野蛮なスポーツはダメだ」と猛反対され、勘当を言い渡されたというエピソードも残っている。
ボクシングと仕事の二足のわらじ——長谷工コーポレーション時代
プロを目指しながらも、ボクシングだけでは食べていけない。内藤は23歳のとき、兄が勤めていた縁から大手ゼネコン・長谷工コーポレーションに就職した。
当初は、ボクシングをやっていることを職場に黙っていた。人付き合いが苦手で、あまりコミュニケーションが取れなかったという。しかしある日、インターネットで内藤が国内ランカー(10位以内)であることが同僚に知られてしまう。とがめられると覚悟していたが、それを知った同僚たちは積極的に声をかけてくれるようになり、熱烈な応援者になってくれた。
「一生懸命がんばる力をくれたのは長谷工。がんばることを認めてくれる温かい会社です」
2004年に日本フライ級王座に挑戦するタイミングで、内藤は長谷工を退職する。安定した収入を捨てる決断には相当の勇気が必要だったが、「最後までやり遂げる」という覚悟で踏み切った。
そのタイトル戦で、同僚たちがカンパを集めて作った「長谷工」のロゴ入りガウンをプレゼントしてくれた。そのガウンは後の世界タイトルマッチでも着用され、今でも大切に保管しているという。職場の仲間との絆が、リングの上でも内藤を支えていたのだ。
日本王者になっても変わらない苦しい生活
2004年6月、内藤は日本フライ級王座を獲得する。名誉ある日本チャンピオンのベルトを手にしながら、生活は一向に楽にならなかった。
日本王者のファイトマネーは決して高くない。防衛戦を重ねても安定した収入にはつながらず、アルバイトを続けながら生活を支えるしかなかった。
それでもボクシングを続けられたのは、妻・真弓さんの存在があったからだ。プロデビュー直後の22歳のとき、同じジムに通っていた2歳年上の真弓さんと出会い、3年後に結婚。しかし結婚後も経済的な苦労は続いた。内藤はのちにこう語っている。
「元々チャンピオンでもなんでもない。プロボクサーでもアルバイターだった。妻に『俺みたいな男じゃなかったら今頃一軒家に住んで専業主婦やってたのに。俺と結婚したから共働きで。自分から苦しい道選んだなぁ』と言っても、『はいはい』って聞き流してくれるから、すごい良い人」
内藤が自嘲気味に笑いながら語るこの言葉には、妻への深い感謝と申し訳なさが滲んでいる。
世界王者になっても時給900円——衝撃のレンタカー店アルバイト
2007年7月、内藤大助はついに宿敵ポンサクレックを破り、WBC世界フライ級チャンピオンの座に就いた。32歳10か月という、決して若くない年齢での戴冠だった。
しかし、世界王者になった後も、内藤は時給900円のレンタカー店でのアルバイトを約2か月間続けた。
ベルトを腰に巻きながら、接客をこなし、時給900円を稼ぐ。その間、妻の真弓さんも喫茶店でのアルバイトを続けた。
「世界チャンピオン=大金持ち」というイメージが、いかに現実とかけ離れているかを象徴するエピソードだ。
実際、世界王座獲得時のファイトマネーはわずか100万円。しかも所属する宮田ジムに毎月1万5000円の月謝を自ら払い、合宿費用(約10万円)も全額自腹。日本経済新聞のインタビューでは、こう振り返っている。
「2007年に世界チャンピオンになる直前までずっとアルバイト生活でした。練習時間やお金の制約はあったけど、厳しい環境でハングリー精神が育ちました」
また、王座を獲得する前の3度目の世界挑戦では資金難でスポンサーが集まらず、内藤は会見でこう懇願する場面すらあった。
「ファイトマネーはゼロでいい。リングに上げてください」
その言葉が示すとおり、内藤にとってリングに上がることは「生活のため」ではなく、それ以上の何かだった。
月収12万円の内訳——ジムへの不満が爆発
亀田大毅との初防衛戦を前に、内藤のジムへの怒りはついに爆発した。
「ファイトマネーが1000〜2000万円じゃ、モチベーションが上がらない。もっとしかるべき金額にしてほしい」 「家族もいるし、ボクシングは仕事。世界王者なんだから、たっぷりもらいたい」
宮田会長はチケット売り上げによる歩合制を提示していたが、内藤は「今はファイトマネーがゼロってことでしょう。おかしいよ」と真っ向から反発した。
世界チャンピオンでありながら、アルバイトで生活費を稼ぎ、ジムに月謝を払い、合宿費も自腹で出す。これが当時の内藤大助の現実だった。
亀田大毅戦が人生を変えた——国民的ボクサーへの転身
2007年10月11日、亀田大毅との世界初防衛戦は社会現象となった。試合中に亀田側から繰り返される悪質な反則行為。それでも冷静に戦い抜き、判定3-0で勝利した内藤に、全国から圧倒的な支持が集まった。
この試合をきっかけに、内藤は一躍国民的ボクサーへと躍り出た。テレビ出演が激増し、CMやイベントの依頼が殺到。ようやく「ボクシングだけで食べていける」環境が整い始めた。
そして世界王者になった後、内藤は妻・真弓さんにこう伝えた。
「今までありがとうございました。お仕事辞めてください。専業主婦になってください。遅くなってごめんなさい」
喫茶店でアルバイトをしながら、文句一つ言わずに支え続けてくれた妻へ。不器用だが心のこもった、世界王者からの感謝の言葉だった。
また、妻の実家(惣菜店)への恩返しとして、後に人気リフォーム番組『大改造!!劇的ビフォーアフター』でその店を改装するというエピソードも残っている。苦しいときに支えてくれた人への義理を、決して忘れない人間性が内藤大助の魅力だ。

まとめ——才能より継続が人生を変える
世界チャンピオンのベルトを巻いても、時給900円のレンタカー店でアルバイトを続け、月収12万円で暮らした内藤大助。
いじめられっ子、就職失敗、フリーター、建設会社の社員、レンタカー店のアルバイト——そのすべての経験を経て、32歳で世界の頂点に立った。
華やかなスポーツ界の舞台裏には、想像をはるかに超える苦労があった。それでも夢を諦めず、「ファイトマネーはゼロでいい」と懇願しながら戦い続けた男がいた。
内藤大助の物語は、「才能より努力と継続が人生を変える」ことを証明した現代のサクセスストーリーだ。そして同時に、どんな逆境の中でも黙って隣で働き続けてくれた妻・真弓さんとの二人三脚の物語でもある。
時給900円で働きながら、心の中ではリングの上を描いていた。その姿が今も多くの人の心を打ち続けている理由は、きっとそこにある。



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