兵庫県尼崎市で、鍼灸師の男が保険医の名義を無断で使用した書類を偽造し、市に療養費の支給を申請したとして逮捕された。有印私文書偽造・同行使という重大な容疑だ。なぜこのような不正が起きるのか。制度の仕組みや過去の摘発事例とともに、事件の全体像を読み解く。
尼崎で何が起きたのか――逮捕された鍼灸師の男
逮捕の経緯
尼崎南署は、尼崎市内で鍼灸師として活動していた40歳の男を、有印私文書偽造・同行使の疑いで逮捕した。
容疑の内容は明確だ。男は保険医2人の名義が記載された書類計5通を偽造し、2024年6月から2025年6月にかけて、尼崎市に対して療養費支給申請書類として提出したとされている。
取り調べに対して、男は容疑を認める供述をしていると報じられている。警察は架空の施術費を受け取ろうとした可能性も視野に入れ、不正受給額や余罪の有無など、捜査を継続している。
「有印私文書偽造」とは何か
今回の容疑となった「有印私文書偽造・同行使」とは、他人の署名や印章を無断で使用して私文書を作成し(偽造)、それを実際に提出・行使する犯罪だ。刑法159条が根拠となり、法定刑は3か月以上5年以下の懲役と定められている。
印章や署名のある文書は信用性が高い分、偽造した場合の罪も重くなる。今回のケースでは「保険医が作成したように見せかけた書類」が使われており、医師という社会的信用のある名義が悪用された点で悪質性が際立つ。
どうして発覚したのか――市のチェックが不正を見抜いた
通常審査の中での「違和感」
今回の不正が明るみに出たきっかけは、尼崎市による書類審査だった。市が申請書類を精査する通常の審査過程において、書類に不自然な点が発見された。
具体的には、書類の体裁や記載内容に通常とは異なる部分があったとみられる。こうした細かな違和感を見逃さなかったことが、不正発覚の糸口となった。
医師への確認で「偽造」が確定
市が疑いを持った後、書類に名義が使われていた保険医2人に直接確認を取ったところ、書類を作成した事実がないことが判明。ここで偽造の疑いが決定的なものとなり、警察への通報・捜査へとつながった。
近年強化される自治体の監査体制
近年、療養費の不正受給が社会問題化していることを背景に、市区町村や保険者によるチェック体制は年々強化されている。申請書類の精査、医療機関への照会、レセプト(診療報酬明細書)の突合など、複数の手法を組み合わせた監査が行われており、今回のケースもその機能が正常に働いた結果といえる。
そもそも「療養費制度」とはどんな仕組みか
鍼灸治療に保険が使える条件
鍼灸(はり・きゅう)は、一定の条件を満たせば健康保険が適用される。具体的には、以下のような疾患が対象となっている。
- 神経痛(坐骨神経痛など)
- リウマチ
- 頚腕症候群
- 五十肩
- 腰痛症
- 頸椎捻挫後遺症
ただし、保険適用には医師(保険医)の同意書が必要だ。患者は医師に診てもらい、鍼灸治療が有効と判断された上で同意書を発行してもらう必要がある。この「医師の同意書」が、今回の事件で偽造された書類の核心部分にあたる。
療養費支給の仕組み
一般的な健康保険では「療養の給付」、つまり現物支給(医療機関での窓口での一部負担)が原則だ。しかし鍼灸院や接骨院などは保険医療機関ではないため、「療養費」という別の仕組みが使われる。
流れを整理すると以下のようになる。
患者が施術を受ける
↓
施術所(鍼灸院など)が一旦費用を受け取る(または受領委任)
↓
施術所または患者が保険者(市区町村・健保組合など)へ療養費を申請
↓
保険者が審査し、適正と判断した分を支給
この流れの中で、申請書類に「医師の同意書」や「施術証明書」が必要になる。これらの書類は本来、医師や施術者が作成するものだが、今回の事件ではその一部が偽造されていた疑いがある。
なぜ不正が起こりやすいのか
療養費制度は、患者が受けた施術の内容を保険者が直接確認することが難しいという構造的な特性を持つ。患者と施術者の間で何が行われたかは、書類上の記載に依存せざるを得ない部分が大きく、これが不正の温床になりやすい。
保険不正請求の「典型的な手口」
今回の事件を理解する上で、療養費をめぐる不正の典型的なパターンを知っておくことが重要だ。
① 架空請求
実際には施術を行っていないにもかかわらず、施術を行ったかのように申請する手口。存在しない患者を計上するケースもある。発覚した場合、詐欺罪が成立することもある。
② 水増し請求
実際の施術回数よりも多い回数を申請したり、施術期間を実態より長く記載したりする手口。一件一件の金額は小さくても、積み重なると被害額は膨らむ。
③ 同意書の偽造・悪用
今回の事件で問題となっているのがまさにこのパターンだ。鍼灸治療に保険を適用するには医師の同意書が必要だが、医師の名義を無断で使用して偽造したり、過去に発行された同意書を使い回したりするケースが全国で摘発されてきた。
④ 患者の署名を悪用するケース
患者が内容を理解しないまま白紙の申請書に署名させ、後から施術内容を水増し記入するケースも報告されている。患者本人は不正に加担しているつもりがなくても、書類上は共犯のような形になってしまう危険性がある。こうした手口は、患者への本人確認や説明が不十分な施術所で起きやすい。

全国で相次ぐ療養費不正請求事件
過去の摘発事例が示す「繰り返し」の構造
療養費をめぐる不正は、今回が初めてではない。接骨院・整骨院・鍼灸院を問わず、全国各地で摘発事例が相次いでいる。行政処分の記録を見ると、不正請求額が数十万円から1,000万円を超えるケースまで幅広く存在し、業務停止処分を受けた事業者も多数いる。
2015年には、指定暴力団が関与する複数の医院・歯科医院・接骨院において大規模な不正請求事件が発覚し、被害額は総額数億円に上ったとされた。業界団体が「起こるべくして起きた最悪の事態」とコメントするほど衝撃的な事件だった。
なぜ不正が繰り返されるのか
制度上の課題として、以下の点が指摘されてきた。
書類審査中心の限界: 保険者が施術の実態を直接確認することは難しく、提出された書類の内容を審査することが中心にならざるを得ない。
同意書取得の形骸化: 医師の同意書が必要とされているものの、長期間にわたる同意書の更新管理が煩雑で、形骸化しているケースもある。
請求件数の多さ: 全国に数多く存在する鍼灸院・接骨院からの膨大な件数の申請を、保険者がすべて精緻にチェックすることには限界がある。
業界全体への悪影響
一部の不正行為者によって、真面目に施術を行っている鍼灸師や柔道整復師が風評被害を受けているという声は多い。患者の不信感が高まることで、正当な保険適用を受けようとする患者が制度利用をためらうようになるという悪循環も生まれている。
容疑者は何を得ようとしたのか
金銭目的の可能性
警察は、男が架空の施術費を受け取ろうとした可能性を視野に入れて捜査を続けている。偽造書類を使って市に申請を行ったとすれば、その目的はほぼ間違いなく金銭的な利益の取得だ。
被害額はいくらか
現時点では、申請書類5通が確認されているが、それぞれの申請額や実際に支給が行われたかどうかの詳細は公表されていない。2024年6月から2025年6月という約1年間の申請が対象となっており、今後の捜査で被害総額が明らかになっていくとみられる。
余罪の有無が捜査の焦点
逮捕された容疑の期間外にも同様の申請が行われていた可能性があり、過去の申請内容の精査が捜査の重要な焦点となる。また、書類の偽造に他の関係者が関与していたかどうかも調査されるとみられる。
ネット上に広がる反応
今回の事件が報じられると、SNSやネット上でさまざまな意見が飛び交った。主な反応を紹介する。
「制度を悪用するな」 最も多かったのは怒りの声だ。「市民の保険料を何だと思っているんだ」「こういう人間のせいで制度が維持できなくなる」という意見が目立った。
「患者にも迷惑がかかる」 書類に無断で医師の名前が使われた可能性への懸念も多かった。また、もし患者の情報が無断で使用されていた場合、その患者が被害を受けるリスクについても指摘された。
「氷山の一角では」 「今まで見つかっていなかっただけで、同様の不正は全国にあるはずだ」という見方も根強い。実際、摘発件数の多さを考えると、この指摘は決して的外れではないだろう。
「真面目な鍼灸師がかわいそう」 業界内や鍼灸師のコミュニティからは、一部の不正によって職業全体のイメージが傷つくことへの悲しみや怒りの声も上がった。「まじめにやっている施術者まで疑われる」という切実な意見は多くの共感を呼んだ。
まとめ――制度の信頼を守るために
今回の尼崎市での事件は、一部の不正が医療・施術業界全体の信頼を揺るがす問題であることを、改めて浮き彫りにした。
鍼灸師が保険医名義の書類を偽造し、療養費支給申請を行ったとされるこの事件は、医師の同意書という制度の根幹を悪用した点で悪質性が高い。容疑者は調べに対して容疑を認めており、警察は架空の施術費受給を目的とした可能性も含め、全容の解明を急いでいる。
療養費制度は、健康上の理由で鍼灸治療を必要とする患者を支える大切な仕組みだ。その財源は市民の保険料や税金であり、不正受給は一人ひとりの負担に跳ね返ってくる問題でもある。
自治体や保険者による監査体制の強化はもちろん、業界団体による自浄作用、そして市民一人ひとりが施術を受ける際に申請内容を確認する意識を持つことが、制度の信頼を守る上で欠かせない。
今後の捜査の進展と、不正受給額・余罪の全容解明に注目が集まっている。





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