「ここ、どこだっけ?」
ロケ現場でふとつぶやく。スケジュールを忘れる。それでも、仕事は続いている。
蛭子能収さんは今も働いている。認知症を公表してから4年以上が経った今も。読者の多くが感じる違和感。
「なぜ誰も止めないのか」
その問いに、本稿は正面から向き合う。
第1章「壊れていくサイン」はすでに出ていた
異変が最初に現れたのは、地方ロケでのことだった。マネージャーの森永真志さんによれば、仕事を終えた蛭子さんが先にホテルへ戻ったとき、「俺、先に家に帰ったから」と電話をかけてきた。地方にいるにもかかわらず、自分が東京の自宅に帰ったと思いこんでいたのだ。
同じ頃、自宅でも夜中に何度もトイレの場所がわからなくなるなど、妻・悠加さんも異変を感じていた。そして2020年、検査の結果が出る。診断は「レビー小体型認知症」と「アルツハイマー型認知症」の合併症。
止める理由は、すでに揃っていた。症状の進行、診断の確定、家族の不安。それでも蛭子さんは、仕事の現場に立ち続けた。
第2章それでも続いた「仕事」
認知症の公表後、蛭子さんは自ら語っている。「お金を稼がないとやる気もなくなるしね」「入れてくれないと生きていけなくなっちゃう(笑)」「一生働きたいですね」。
医師も後押しした。「仕事は午後1時から5時の間で、ぜひ続けるようにしてください」という指示のもと、波が少ない時間帯に絞って活動が組まれた。週刊誌「サンデー毎日」の連載は現在も続き、2023年には個展「最後の展覧会」を開催。出品作は完売した。
しかし、ここで問いを立て直す必要がある。「本人の意思」で働いているのは間違いない。だが、それだけが理由なのか。
第3章「優しい環境」の正体
周囲の配慮は周到だ。夜遅い仕事や未知の場所でのロケは避ける。常にマネージャーが同行する。仕事の内容も、蛭子さんが混乱しにくいものに絞られている。漫画連載は「口述筆記」に近い形で編集者がまとめ、本人の負担を最小化している。
一見すると理想的なサポート体制だ。でも、立ち止まって考えてみてほしい。
それは「支援」か、それとも「続けさせるための仕組み」か。
この問いは、批判ではない。しかし、同じ問いを自分自身に向けたとき、答えに詰まる人も多いはずだ。
第4章変わっていく「アウトプット」
蛭子さんの絵には、変化が現れている。かつてのシンプルな線画から、輪郭の外に目が描かれるような、独特の抽象表現へ。個展で展示された作品はすべて抽象画だった。
蛭子さんは言う。「認知症だと周りはいうけれど、オレは何も変わっていない」と。
この変化を「個性」として消費していないか。鑑賞者として、私たちは正直に問うべきかもしれない。
第5章「ありがとう」の裏側
認知症を発症してから、蛭子さんに変化が生まれた。かつては仕事とギャンブル優先で、家族への感謝を言葉にすることが少なかった。しかし今は、「ありがとう」を素直に口にする機会が増えたという。妻・悠加さんも「驚いた」と話す。
個展の成功を喜ぶ蛭子さんの表情は、本物だったと関係者は語る。感謝も、喜びも、本物だろう。
ただ、ひとつ問う。その「ありがとう」は完全に自発的なものか。それとも、支えられている側が感じる「感謝しなければならない」という義務感も混じっているか。
第6章誰も止められない構造
整理してみると、こうなる。
本人は「働きたい」と言っている。周囲は「支えたい」と思っている。社会は「認知症でも活躍できる」という美談を求めている。
誰も悪意を持っていない。でも、誰も止めることができない。
これは個人の問題ではなく、構造の問題だ。「やめてもいい」と言える人が、この構造の中に存在しない。
第7章支える側も逃げられない
マネージャーの森永さんは、自身の父親も認知症だったという。仕事では蛭子さんを、プライベートでは父を。そのダブルケアの中で、森永さんは語る——「自分の心に余裕がないと他人をケアできない」と。
かつて、介護を1人で抱えた人々が心身ともに限界を迎えるケースは枚挙にいとまがない。「頼るしかない」という現実の中で、支える側も選択肢を失っていく。
優しさは、いつの間にか「義務」に変わる。その瞬間を、私たちはどれだけ自覚できているだろうか。
最終章「優しさという圧力」の正体
蛭子能収さんの話は、美しい。認知症になっても仕事を続け、個展を開き、感謝を言葉にする。それは本当に、美しい物語だ。
だが、その物語の外側には、見えにくいものがある。
働きたい本人。支えたい周囲。応援したい社会。三者の「善意」が重なるとき、そこには意図しない圧力が生まれる。「やめてもいい」と言える人が、誰もいない構造が生まれる。
本人が本当に休みたいと思ったとき、その言葉を誰かが受け取れるだろうか。「大丈夫、休んでいいよ」と、誰かが言えるだろうか。
「優しさは人を救う。でも時に、”やめる自由”を奪う。」
この問いは、蛭子さんだけに向けられたものではない。介護する側も、される側も、そして「応援する社会」の一員である私たちも、一度立ち止まって問い直す価値がある——あなたの周りに、「やめてもいい」と言える人は、いますか?



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