「甲子園スター」「日テレのエースアナ」。そんな輝かしい肩書きを持ちながら、上重聡の人生には大きな試練が待ち構えていた。1998年の感動的な死闘から、スキャンダルによる番組降板、そして日本テレビ退社へ。
野球とアナウンサー、二つの世界で頂点を目指し続けた男の軌跡を追う。
甲子園を沸かせたPL学園のエース
1998年夏。全国高校野球選手権大会の準々決勝で、球史に刻まれる伝説の試合が生まれた。
PL学園 対 横浜高校。延長17回という、現代では規定上もはや実現不可能な激闘だ。マウンドに立ち続けたPL学園のエース・上重聡は、その名を一夜にして全国に知らしめた。相手のエースは、のちにプロ野球界の頂点に立つ怪物・松坂大輔。7対7の同点で迎えた延長17回、横浜高校に勝ち越しホームランを浴びてマウンドで膝をつくシーンは、球史に残る名場面として今も語り継がれている。
大阪府八尾市出身の上重は、小学2年から野球を始め、小・中ともに全国大会優勝を経験。中学時代はボーイズリーグで平石洋介(後の楽天監督)とチームメイトとなり、ともにPL学園へ進学した。PL学園ではエースとして君臨し、春夏連続甲子園出場を果たし、春はベスト4、夏はベスト8の成績を収めた。敗れた相手はいずれも松坂を擁する横浜高校。それ自体が、上重の実力の高さを証明していた。
当時のスカウト陣も注目する「プロ注目の投手」
そんな上重に、エリートとは思えないほど予想外の転機が訪れる。
野球の怪物よりマイクを選んだ理由
立教大学へ進学した上重は、さらなる伝説を刻む。2000年10月、東京六大学野球秋季リーグ戦で36年ぶり史上2人目となる完全試合を記録。そのウイニングボールは野球体育博物館に展示された。
プロへの道が開けていたはずだった。しかし上重は、意外な選択をする。アナウンサーへの転身だ。
背景には複雑な事情があった。4年時には主将を務めるも、ひじの故障に悩まされ、思うような投球ができなくなっていた。体が悲鳴を上げる中で、彼は別の夢を思い出す。高校時代の甲子園出場時にインタビューを受けた経験が、アナウンサーを目指すきっかけとなったと後に語っている。
そして2003年、日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の就職試験を受けて全社から内定を獲得。男性アナウンサーの活躍を考え、日本テレビへ入社した。「元甲子園スターのアナ」として、入社当初から大きな注目を集めた。
日テレの「エース上重」と呼ばれた時代
入社後の上重は、まさにエリート街道を驀進した。プロ野球をはじめとするスポーツ中継でその実力を発揮し、2010年4月からは『ズームイン!!サタデー』の5代目総合司会に就任。番組内での愛称は「エース上重」——命名したのはあの原辰徳だ。
野球経験者ならではの深い解説と端正なルックス。情報番組の司会もこなすマルチな活躍で、「将来の看板アナ」との呼び声も高く、2014年のオリコン「好きな男性アナウンサーランキング」では2位にまでランクインした。
しかし——。
人生とは、頂点にいるときほど、足元が揺らぎやすい。
ベンツ無償提供疑惑…キャリア最大の危機
2015年、上重聡のキャリアを揺るがす大きなスキャンダルが週刊誌に報じられた。
知人の会社社長から高級外車・ベンツを無償提供されていたとされる問題、さらには高級マンションへの利益供与疑惑まで浮上。放送人として、コンプライアンスが厳しく問われる案件だった。
結果は厳しいものだった。2015年3月30日から『スッキリ!!』のサブ司会に起用される一方、プロ野球担当を外れるなど、徐々に主要ポジションから姿が消えていった。「エース上重」と呼ばれた男が、一転して表舞台から遠ざかっていく。
2014年に2位だった「好きな男性アナランキング」は翌年5位に下落し、それ以降はトップ10入りを果たしていない。数字がすべてを物語っていた。
それでも歩み続けた、21年間
スキャンダルの打撃は大きかった。しかし上重は、折れなかった。
スポーツ実況から外れた後も、ナレーションや情報番組など、与えられた場所で淡々と仕事を続けた。表舞台が減っても、アナウンサーとしての矜持は失わなかった。
そして長い年月の中で、少しずつ復活の兆しが見えてきた。2022年の北京冬季五輪や箱根駅伝の実況も担当し、『シューイチ』の「体格ブラザーズ」コーナーではその巨体を活かしたキャラクターでも人気を集めた。
だが、日テレでの21年間のキャリアに、上重は自ら幕を引く決断をする。
日本テレビ退社、そしてフリーへ
2024年1月、上重は3月末での日本テレビ退社とフリーアナウンサーへの転身を発表。21年間の在籍に幕を閉じた。
「厳しい道ではあるが、人生後悔しないように、チャレンジしたい」
そのコメントには、かつて甲子園で延長17回を投げ抜いた男の意地が滲んでいた。
フリー転身後の道は、決して平坦ではなかった。退社後1年の間に2度も帯状疱疹に罹患。スケジュールが埋まらない時期は弱音も吐けず、夜眠れなくなり食欲もなくなったという。
転機となったのは、意外な出来事だった。『ダウンタウンDX』のフリーアナウンサー大集合SPに出演した際、格好つけることをやめて「助けてください。僕、仕事がありません!」と正直に打ち明けた。すると翌日、仕事が30件も舞い込んだという。
「弱さを見せること」が、新たな強さになった。甲子園で無敵のエースと呼ばれた男が、40代でたどり着いた境地だ。
まとめ|逆境と共に生きるアスリートアナウンサー
上重聡の人生を振り返ると、輝かしい実績の裏に、常に試練があったことがわかる。
- PL学園のエースとして甲子園を沸かせながら、延長17回の末に敗れた高校時代
- プロ注目の投手でありながら、肘の故障でその夢を断念した大学時代
- 日テレの看板候補にまで上り詰めながら、スキャンダルで奈落に落ちた2015年
- フリー転身後も仕事のない期間に苦しんだ2024年
それでも彼は、その都度立ち上がってきた。
松坂大輔とは若い頃は互いに弱音を言い合えなかったが、松坂が引退前に怪我の苦しみを吐露するようになり、互いに弱音が吐けるようになったという。松坂世代として、同じ時代を戦い抜いた者同士の絆がそこにはある。
甲子園スターからエリートアナ、スキャンダル、そしてフリーへの挑戦。
上重聡の物語は、まだ終わっていない。




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